カクショウとは? わかりやすく解説

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かく‐しょう〔‐シヤウ〕【各省】

読み方:かくしょう

内閣統轄されて、それぞれの分担する行政事務執り行う機関

それぞれの省。「関係—で協議する


かく‐しょう〔‐シヤウ〕【客将】

読み方:かくしょう

客分である武将将軍きゃくしょう


かく‐しょう【確証】

読み方:かくしょう

たしかな証拠まちがいのない証拠。「—をつかむ」「—が得られない

[補説] 書名別項。→確証


かくしょう【確証】

読み方:かくしょう

小谷剛短編小説昭和24年1949発表同年第21回芥川賞受賞


かく‐しょう〔‐シヤウ〕【×膈症】

読み方:かくしょう

食べ物が通らなくなる病気胃癌(いがん)・食道癌などにあたるという。かくのやまい

天明初年、—を患(うれ)へて」〈蘭学事始


かく‐しょう〔クワクシヤウ〕【郭象】

読み方:かくしょう

252ころ〜312中国西晋学者。字(あざな)は子玄。河内河南省)の人。清談にたくみで、「荘子」の注を著し魏晋のころの玄学思想によって道家哲学顕彰した。


かく‐しょう〔‐シヤウ〕【×氅】

読み方:かくしょう

羽毛作った衣。つるのけごろもまた、降りかかった衣。


郝昭Hao Zhao

カクショウ
カクセウ

(?~?)
雑号将軍列侯

字は伯道。太原の人《明帝紀》。

郝昭の人となり雄壮で、若いころから軍隊入り部曲督となり、しばしば戦功立てて雑号将軍昇進した明帝紀》。

延康元年二二〇)五月西平の麴演が隣郡と手を結んで叛乱起こすと、張掖の張進は太守通を捕らえ酒泉黄華太守辛機を受け入れずそれぞれ太守自称して麴演に呼応した。もともと郝昭は魏平とともに金城守っていたが、詔勅受けて西へ進むことができなかった。金城太守蘇則は郡の重役や郝昭らを招いた蘇則伝》。

蘇則が「賊徒数多い脅迫され味方している者も多く、そこに付け込んで攻撃すれば善人帰順させることができよう大軍到着待っていても、善人悪人協力させるだけだ」と告げると、郝昭らは彼に賛同した。そこで武威救援し武威太守毌丘興とともに張掖の張進に攻撃をかけた。麴演が軍勢率いて援助申し出てきたが、蘇則会見席上で彼を斬首した。蘇則・郝昭らは張掖包囲して陥落させ、張進を斬首した。黄華恐怖して降服し河西地方平定された《蘇則伝》。

太和元年二二七)春正月西平の麴英が反乱起こし臨羌県令西都県長殺した。郝昭・鹿磐が征討派遣され、これを斬首した《明帝紀》。

翌二年春、諸葛亮祁山進出してきたが、曹真張郃らの働きによって撃退された。曹真諸葛亮矛先変えて次は陳倉侵入してくるだろうと予測し、郝昭・王生陳倉を守らせ、その城を固めさせた《曹真伝》。郝昭は新たに陳倉下城築き、元の上城に連結させた《明帝集解》。

同年十二月諸葛亮果たし陳倉進出して郝昭らを包囲した諸葛亮はもともと陳倉城は粗悪だと聞いていたのに、実際に見てみるとよく整備されていたので意外に思い、その城内に郝昭がいると知って大い驚愕した。郝昭が西方にあって威名轟かせていたことを、諸葛亮はかねて知っていたからである。そして、これを攻撃するのは容易でないことを悟った明帝集解》。

諸葛亮は郝昭と同郷靳詳使者として城外から降服呼びかけさせた。郝昭は矢倉の上から答えた。「魏の法律はあなたもよくご存じだろう。私の人柄あなたはよくご存じだろう。私は国家御恩多大に受け、一門栄えようになったあなたは何も言うな。ただ死を覚悟するだけだ。あなたは帰って諸葛亮伝えてくれ、すぐに攻撃せよと。」《明帝紀》

集解』に引く『魏略』によると、郝昭は「むかし防備固めて祁山守ったときは安閑として用心足らず最終的に守りきることができたとはいえ今でも忸怩たる思い抱いておるのだ」と語っている。諸葛亮祁山から先へ進軍させなかったのは、郝昭の功績ということになる。

諸葛亮は郝昭の言葉聞くと、ふたたび靳詳使者として「人数同等ではないのだから自分から無駄死にするような真似はなさるな」と説得させた。郝昭は靳詳告げた。「以前言葉でもう決まりだ。私があなたのことを知っていても、矢はあなたのことを知らないのだぞ。」靳詳立ち去った明帝紀》。

諸葛亮軍勢数万抱えており、郝昭の軍勢がわずか千人余りであるし、東方からの救援軍もすぐには到着しないだろうと考え、そこで軍勢進めて郝昭を攻撃させた。まず雲梯衝車城壁に迫らせると、郝昭は火矢雲梯向かって放ち雲梯乗っていた者をみな焼死させた。また石臼を繩で繋いで衝車投げ落とすと、衝車破壊された《明帝紀》。

諸葛亮次に百尺もある井闌から城内に矢を注がせつつ、瓦礫で堀を埋め城壁直接よじ登らせようとしたが、郝昭はまた内側二重の壁を作った諸葛亮今度地下道作って城内躍り出ようとすると、郝昭は城内地面掘り、それを遮断した。こうして昼も夜も戦い続けて二十日余り経ち諸葛亮万策尽き救援軍到着したので引き揚げていった明帝紀》。郝昭がよく守ったということ詔勅によるお褒め与り列侯爵位賜った明帝紀》。

河西地域鎮めること十年余り民衆夷族たちも畏服した《明帝紀》。帰国して帝に拝謁したとき、帝は彼を慰労しつつ中書令孫資の方を振り返り、「あなたの郷里にはこのような快男児がおって、将軍としてこれほど輝いておる。朕はもう何を配することがあろうか」と言った。そこで大役抜擢しようとしたところ、ちょうど病気かかって郝昭は亡くなった明帝紀》。

郝昭は息子郝凱にこう遺言した。「私は将軍となり、将軍になどなるものではないと悟った。たびたび塚を発掘して木材取り戦争道具使ったから、手厚い埋葬死者にとって無益であることを知った。必ず季節の服で埋葬せよ。それに人間生きていてこそ居場所があるのだ。死んだらどこに住まうというのか(場所は関係ないのである)。ここは祖先の墓から遠く離れてはいるが、東西南北どこであろうとお前次第である。」《明帝紀》

参照王生 / 郝凱 / 毌丘興 / 魏平 / 麴英 / 麴演 / 靳詳 / 黄華 / 諸葛亮 / 辛機 / 蘇則 / 曹叡(帝) / 曹真 / 孫資 / 張郃 / 張進 / 通 / 鹿磐 / 河西 / 魏 / 祁山 / 金城郡 / 酒泉郡 / 西都県 / 西平郡 / 太原郡 / 張掖郡 / 陳倉県 / 武威郡 / 臨羌県 / 県長 / 県令 / 雑号将軍 / 太守 / 中書令 / 列侯 / 雲梯 / 衝車 / 井闌 / 地突(地下道) / 部曲


郭攸之Guo Youzhi

カクショウ
クワクイウシ

(?~?)
侍中

南陽の人《董允伝》。字は「演長」と見られている《廖立集解》。

郭攸之は器量学業によって名を知られ、中郎から侍中へと昇進した董允廖立伝》。丞相諸葛亮北伐のために漢中へと赴くにあたり上疏して述べた。「侍中の郭攸之・費禕侍郎董允らはみな実直で、心は純粋です。これは先帝陛下のために選抜してお遺しになった者たちです。国益計算して見極め忠言尽くすことこそ、彼らの任務です。宮中事柄大小区別なく彼らとご相談ください必ずや遺漏補って利益もたらしてくれるでしょう。もし盛徳高め言葉なければすぐさま処刑してその怠慢明らかにしてくださいませ。」《諸葛亮董允伝》

同じく侍中であった董允公明正大であったのに対し、郭攸之は人なつこい性格であったので、ただ定員埋めるだけでしかなかった。そのため侍中から長水校尉へと左遷され廖立は「中郎の郭演長は他人言いなりなるだけで、ともに大事を計るには不足しているのに、それが侍中になっている」と激しく非難している《董允廖立伝》。

参照諸葛亮 / 董允 / 費禕 / 劉禅陛下) / 劉備先帝) / 廖立 / 漢中郡 / 南陽郡 / 侍中 / 丞相 / 侍郎 / 中郎 / 長水校尉


郭昭Guo Zhao

カクショウ
クワクセウ

(?~?)
漢射声校尉

袁尚の将。射声校尉呉将部曲文》。

建安九年(二〇四)二月袁尚審配蘇由を鄴の守備残し、自ら平原袁譚討伐した。その留守を衝いて曹操が鄴城を包囲したため、七月袁尚は鄴の城外まで引き返したが、曹操の逆包囲恐れて逃走する。このとき曹操追撃しようとすると、郭昭は矛を交える寸前馬延張顗陰夔とともに降服した。そのため袁尚軍は大潰滅する《武帝紀・袁紹伝・呉将部曲文》。

参照陰夔 / 袁尚 / 袁譚 / 審配 / 蘇由 / 曹操 / 張顗 / 馬延 / 鄴県 / 平原郡



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