陰夔
袁尚の将。任官時期は不明だが、故(もと)の予州刺史とされる。 建安七年(二〇二)に袁紹が亡くなったのち、子の袁譚・袁尚兄弟は互いに憎しみあった。二人は競って崔琰という者を味方に引き入れようとしたが、崔琰の方では病気を称していずれにも荷担せず、そのため袁尚の怒りを買って牢獄に繋がれた。彼が助かったのは陰夔が陳琳とともに取りなしてやったからである《崔琰伝》。 九年二月、袁尚は審配・蘇由を鄴の守備に残し、自ら平原の袁譚を討伐した。その留守を衝いて曹操が鄴城を包囲したため、七月、袁尚は鄴の城外まで引き返す。しかし曹操の逆包囲を恐れた袁尚は、陰夔・陳琳を使者として和睦を求めた。曹操は申し入れを断り、袁尚が恐怖を覚えて濫口に逃走すると、これを再び包囲した。そのとき矛を交える寸前、陰夔は馬延・張顗・郭昭らとともに投降した《武帝紀・袁紹伝・檄呉将校部曲文》。 【参照】袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 郭昭 / 崔琰 / 審配 / 蘇由 / 曹操 / 張顗 / 陳琳 / 馬延 / 鄴県 / 平原郡 / 予州 / 濫口 / 刺史 |
陰夔
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陰 夔(いん き、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の政治家、武将。
事跡
姓名 | 陰夔 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 豫州刺史 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 袁尚 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
袁紹の三男袁尚の配下。かつては豫州刺史を務めたとされるため、袁氏家臣団の中でもかなり高位の人物と見られる。
建安7年(202年)の袁紹没後に、長男の袁譚と三男の袁尚が後継争いを起こした。その際に、騎都尉の崔琰を双方が招聘したが、崔琰は病気と称していずれにも与さなかった。そのため崔琰は、怒った袁尚に収監されてしまう。袁尚配下の陰夔と陳琳が取りなしたおかげで、なんとか赦免された。
建安9年(204年)、袁尚は、鄴を守備する袁尚の参謀審配を救援するために、鄴を包囲する曹操軍と戦う。しかし敗北を積み重ね、ついには降伏の使者として陰夔と陳琳を曹操の下に派遣したが、拒絶される。陰夔は都督将軍馬延・射声校尉郭昭と共に曹操に投降した。[1]
小説『三国志演義』では、曹操への降伏の使者となった時のみ登場している。
参考文献
注釈
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