エンフィールド銃への問題発生と、それに対する改良
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「エンフィールド銃」の記事における「エンフィールド銃への問題発生と、それに対する改良」の解説
エンフィールド銃は、インド大反乱で大きく活躍したが、同時に、インドの過酷な戦場や状況で、エンフィールド銃が装填不可能になってしまうという問題が発生していた。原因は、ファウリングや、砂塵、そして銃身内に起きた錆などであり、弾薬包紙に包まれた.568口径のエンフィールド弾は、銃身の口径と0.001インチほどの差しかないことから、ほぼぴったりと銃口に嵌ったため、これらの原因によってエンフィールド銃は装填がかなり困難になってしまった。 1つ目の原因であるファウリングの発生原因は、常に戦闘をしていた兵士たちが、銃を清掃できる暇がなかった事や、1857年型弾薬包に付着しているグリースを構成している一物質である獣脂が、インドでの酷暑で溶けた事により、それを弾薬包紙が吸収してしまうという問題が発生し、グリースが潤滑剤としての役割を果たさずにファウリングを防止しなかった事、2つ目の砂塵の原因は、空気中を舞う大量の砂が、進行中のイギリス兵士達のエンフィールド銃の銃身内に侵入してしまった事、そして3つ目の銃身内の錆の原因は、ファウリングによって銃身内に残る黒色火薬の燃えかすが、水を吸収する性質を持つ炭酸カリウムである事から、空気中の水蒸気を取り込み、兵士のクリーニング不足からそのまま銃身を錆びさせてしまった事であった。 インド内にいたイギリスの部隊は、特に1858年の夏の酷暑でとても苦戦していた。この問題の一例として、第71歩兵連隊(英:71st (Highland) Regiment of Foot )のコンチ(英:Konch )での戦闘が知られている。1858年5月7日、イギリスの部隊は、コンチ(英:Konch )で戦闘を行っていた。その時の気温は46.1度であり、数日後には54.4度まで到達していた。第71歩兵連隊(英:71st (Highland) Regiment of Foot )は、一日中戦闘を行なっていた。この時の猛暑のせいで、その隊のうちの12人が熱中症によって死亡していた。そして、上記の3つの原因などでエンフィールド銃は装填が不可能となっており、セポイ達の滑腔銃は、ライフリングなどがなく、弾丸の直径と銃身の直径にかなりの差がある事から、装填が可能であった。これらの問題が発生した事によって、エンフィールド銃に対する信頼がほとんど失われつつあった。 エンフィールド銃の装填が不可能になる問題はかなり深刻で、エンフィールド銃は10~12発ほどの発砲で使い物にならなくなり、兵士は、エンフィールド銃をラムロッドを銃身内に差し込んだ状態で壁や木に打ちつけて装填しようとしていた。かつて、エンフィールド銃の弾薬包がクリミア戦争でプリチェット弾と共に失敗した時は、エンフィールド銃の投入が遅れ、かつ少数であった事から、大した問題ではなかったが、インド大反乱では、エンフィールド銃が殆どの連隊に配備されていたため、この装填困難化の問題は、とても大惨事であった。そのため、エンフィールド銃への信頼は、軍事使用を諦めようとするレベルまで達していた。 この問題は、陸軍の評価をガタ落ちさせたが、最終的な責任は装填困難化問題の根本的原因であった1857年型エンフィールド弾薬包の製造を行なっていた王立研究所(英:Royal Arsenal)にあった。 そして、このエンフィールド銃装填困難化問題を解決するために、王立研究所(英:Royal Arsenal)の最高責任者であったエドワード・ムーニエ・ボクサー(英:Edward Mounier Boxer ) は、獣脂に比べて融点が高くて溶けにくい純粋な蜜蝋が、弾薬包の潤滑剤として使用できるかを試すための研究を開始する様になる。 獣脂は、様々な欠点が存在しており、それはとても深刻なものであった。1857年終わり頃、ヘイ大佐は、蜜蝋と獣脂を1:5の割合で構成したグリースに漬けられた弾薬包を用いた装填と発砲を観察したところ、獣脂の弾丸に対する痛烈的な効果を発見した。そしてインドにあるエンフィールド弾薬包は、装填が異常に難しくなっており、グリースは機能しなくなっていた。この問題は、インドなどの非常に熱い気候の場所によって引き起こされた可能性があり、問題の原因は、弾丸の鉛と獣脂との間で酸化が起き、それによって弾丸の周りに白色の錆が多く付着し、直径が増加してしまうことで装填が難しくなり、発生する酸性物質によってグリースが完全に破壊されてしまう事であった。 獣脂が原因でこの様な問題が発生したため、純粋な蜜蝋がいかなる天候でも装填可能であるか、そしてファウリングを防げるかを試すために、ボクサーは1857年第二4半期から実験を開始した。蜜蝋は、獣脂に比べて硬い事から、蜜蝋に漬けた弾薬包は装填がキツくなってしまう。これに対するボクサーの解決策は二つあり、一つは、弾薬包の底を高温の蜜蝋に漬け、弾薬包紙に吸収させる方法で、もう一つは、弾薬包の底を通常温度の蜜蝋に漬け、その弾薬包を.582口径の高温の鉄製のリング(ゲージ)に通す事で蜜蝋を溶かし、蜜蝋による弾薬包の直径増加を減少させる方法であった。これらの方法によって装填がキツくならなくなると考えられた。実験後、ボクサーは蜜蝋を弾薬包の潤滑剤として提案した。 しかし、このボクサーの2つの解決策が上手くいくことはなかった。1857年型エンフィールド弾薬包に採用されていた蜜蝋と獣脂を5:1の割合で構成したグリースは、涼しい気候などの多くの場合において装填がとてもキツく、弾丸が自身を包む弾薬包紙を貫通してしまう現象が発生する事で命中精度の低下や装填速度の低下の問題が存在していた。ヘイ大佐は、蜜蝋と獣脂を5:1の割合で構成したグリースに漬けた弾薬包に、ボクサーの2つの解決策を取り入れて試した所、ボクサーの2つの解決策は問題を少し解決することしかできなかった。この事から、ヘイ大佐は、純粋な蜜蝋が、弾薬包の潤滑剤として上手く機能しないだろうという事と、現在採用されているグリースが猛暑以外では上手く機能しないだろうという事を意見した。 そのため、ヘイ大佐は獣脂と蜜蝋を4:1の割合で混ぜたグリースを提案した。ヘイ大佐は他にも、純粋な蜜蝋は、弾薬包が兵士の胴乱の中で揺れたりする事で、弾薬包から取れてしまうという異議を述べ、1853年の頃に作られたエンフィールド弾薬包が、今でも良い状態であったことを何度も見かけた経験から、獣脂が引き起こす弾丸発錆問題に関しては何も言及しなかった。 この様にしてヘイ大佐とボクサーとの間では、獣脂と蜜蝋で構成されたグリースか、純粋な蜜蝋かの採用で激しい議論が繰り広げられた。両者の意見には重みがあり、ボクサーは、獣脂の欠点(弾丸に錆を起こしたり、溶けて弾薬包を濡らしてしまう事など)を科学的に証明する事ができ、ヘイ大佐は、マスケトリー学校(英:Small Arms School Corps)での数年分の経験から、獣脂の必要性を証明する事ができた。 1858年2月9日、ヘイ大佐は、様々なグリースを用意し、実験を下士官に行わせる様に指示された。複数の実験の後、1858年2月12日には、ヘイ大佐を含む実験への参加者全員は、純粋な蜜蝋が軍用弾薬包の潤滑剤として使用する事が不可能になるだろうという事を確認した。そして、ヘイ大佐は、蜜蝋と獣脂を1:4の割合で構成したグリースを再び強く提案した。 次に、獣脂の欠点を防ぐ事と、蜜蝋が弾薬包から取れてしまう問題を防ぐ事を目的として、新たな実験が開始された。実験では3つのグリースが用意され、それぞれ、蜜蝋と獣脂が5:1、2:1、1:4の割合で組み合わされていた。弾薬包から蜜蝋が取れてしまう問題を防ぎ、弾薬包をより装填しやすくする為に、弾薬包は110度の温度で温められ、グリースに漬けられた後、54.4度の.582口径の鉄製ゲージに通された。射撃は、1.1度の寒い中で行われた。テスト後、蜜蝋と獣脂を5:1で構成したグリースが、寒い天気の中では、ファウリングを防ぐ事と、装填を容易にすることにおいて最も良かった事が判明した。そのため蜜蝋と獣脂を5:1で構成したグリースが再び提案された。しかし、兵士の装填などが雑であると、上記の二つの方法で作られ蜜蝋と獣脂を5:1で構成したグリースに漬けた弾薬包であっても、上手く機能しなかった。そして、ヘイ大佐は、この実験の結果に反対し、拒否した。 これらの事から、弾薬包を温めたり、蜜蝋を温めたり、.582口径の鉄製ゲージを扱ったりするなどのボクサーの対策は、問題を解決することはできず、全て失敗した。しかし、ボクサーは、エンフィールド銃の装填困難化問題を解決する鍵は、蜜蝋を弾薬包の潤滑剤として扱える様に改良するのではなく、.568口径のエンフィールド弾に改良を加える事だと気づいた。 ボクサーは、エンフィールド弾の口径を、.568口径から0.018インチ縮小し、.550口径(13.97mm)にする事を提案した。この提案には、弾丸と銃身との間にある隙間を0.001インチから0.018インチまで増大することによって、純粋な蜜蝋に漬けられた弾薬包でも、装填が楽に行える様になるという考えがあった。 しかし、この提案に対する反応は、かなり懐疑的なものだった。ヘイ大佐などの多くの軍人は、弾丸の口径を縮小すれば、銃身と弾丸との間の隙間が大きく増加し、それによってガスが漏れるなどして弾丸の威力が弱まったり、射程が減少したり、精度が低下したりするなど、様々な問題が露呈してしまうと考えた。 しかし、エンフィールド弾の空洞内にある木製プラグの大きな拡張によって、例え、口径が収縮されていたとしても、エンフィールド弾は十分に拡張してライフリングに吻合する事ができた。ボクサーは、.550口径のエンフィールド弾は、.568口径のエンフィールド弾と同等の精度、又はそれよりも優れた精度を出す可能性があると主張し、1858年の3月14日に、ボクサーが.550口径のエンフィールド弾を実際にテストした所、800ヤード先での射撃において、.550口径のエンフィールド弾は「公正な射撃」が可能である事が証明された。 1858年7月には、委員会が設立され、委員会は、.550口径のエンフィールド弾の精度と、弾丸の銃身内での移動を確認する為にテストするよう指示された。 .550口径のエンフィールド弾を装填したライフルは、逆さまにされ、揺らされ、叩きつけられたが、銃身内で移動することはなかった。.550口径のエンフィールド弾はとても装填しやすく、ラムロッドの重量だけで銃身の底まで落ち、ほんの僅かにラムロッドを押すだけでよかった。複数の発砲によって銃身が熱くなり、弾薬包の蜜蝋が溶けだすようにになると、弾丸は自身の重量だけで銃身の底まで落ちるようになった。そして、.550口径のエンフィールド弾は、.568口径のエンフィールド弾よりも多くの蜜蝋を弾薬包に保持させる事ができたため、より多くの蜜蝋を銃身全体に行き渡らせることができた。結果的に、明らかなファウリングの減少が得られた。 .550口径のエンフィールド弾に感銘を受けた委員会は、.550口径のエンフィールド弾の迅速な採用を熱心に提案した。.550口径のエンフィールド弾が優秀なのは明らかで、.568口径のエンフィールド弾との精度は同等で、初速はより速く、より弾道が低伸であった。そして、最悪な天候下では、ファウリングを最小限度まで抑えた。 .550口径のエンフィールド弾は、1858年7月26日にインドでの軍事使用で採用され、そして1859年2月21日はイギリス軍全体に採用された。しかし、.550口径のエンフィールド弾が委員会によって提案されても、.550口径のエンフィールド弾は物議を醸し出したままであった。 ヘイ少将は.550口径のエンフィールド弾を好んでおらず、採用の数ヶ月後も彼は弾丸に反対し続けた。1859年5月、ヘイ少将は.550口径のエンフィールド弾の射撃を観察し、1859年5月31日には、.550口径のエンフィールド弾は、400ヤード以降の距離で効果的でなくなることは明らかであり、その様な弾丸によってライフルの射程が制限され、戦場での効率的な働きが大幅に低下してはならないと意見を述べた。ヘイ大佐はこの様なことから、.550口径のエンフィールド弾を認めなかったのである。 ボクサーは、エンフィールド弾のプラグにも変更を加えた。1856年以降、木製プラグは湿気や乾燥によって膨張や収縮を起こさないようにするために柘植から作られていたが、柘植はとても高価であり、イラストレイテド・ニュースペーパーなどに用いられている事から需要がとても高く、輸入量が需要に追いつけずにいた。そのため、ボクサーは、プラグの材料である柘植の代わりを探していた。 そして彼は、1861年頃からプラグの材料を、柘植からセラミック粘土へと移行する事を開始する。粘土製プラグを挿入した.550口径のエンフィールド弾は、温度や湿気などに影響されることは一切なく、精度の点においては木製プラグを挿入したものよりも優れていた。そうして粘土製プラグをイギリス軍全体に実験的に導入した後、1864年2月2日には粘土製プラグは正式に採用された。 1857年頃に出版、1858年頃に覆刻された新たな歩兵用マニュアルでは、エンフィールド銃の装填方法は、弾薬包の先端部分を口で噛みちぎる方法から左手で千切る方法へと変更されていたが、1857年型エンフィールド弾薬包は、内側の弾薬包紙がとても長いため、弾薬包の先端部分は2枚の紙が捻じられていた。そのため、この弾薬包は、先端部分を口で噛みちぎる事は楽だったものの、手で千切る事が困難であった。そのため装填はぎこちなくなり、そして引きちぎる勢いが強すぎるせいで、弾薬包内の火薬を少し漏らしてしまった。 この様な問題を解決するために、ボクサーは、弾薬包にも改良を加えた。ボクサーは、外側の弾薬包紙の全長を短くし、内側の弾薬包紙の全長は長くした。そして、長方形の細い紙を巻いて外側の弾薬包紙と内側の弾薬包紙をしっかりと固定する構造にした。これにより、内側の弾薬包紙のみしか捻られないため、手で簡単に弾薬包の先端を千切る事が出来た。そして全長が長くなった内側の弾薬包紙により、火薬が漏れ出す事は無く、長方形の紙のキツイ巻き付けによって、弾薬包の緩みによる分解を防いだ。 ボクサーは、この新型の弾薬包を1858年初めに提案し、1858年春にはこの提案は提出された。ヘイ大佐は、この新型弾薬包をテストし、1858年4月15日には、新型弾薬包の性能は良かったが、提案する事はできないとヘイ大佐は意見した。そしてヘイ大佐は、新型弾薬包は火薬を銃口内へと流し込みにくいなどの様々な異議を唱えたが、それらは全く説得力のないものであった。 そうして、この新型弾薬包は、1859年型エンフィールド弾薬包としてイギリス軍全体に採用された。 1859年10月10日には、外側の弾薬包紙に四つ目の切り込みが入れられた。これは、既に完成した弾薬包を蜜蝋に漬けた後に切り込まれ、エンフィールド弾の全長ほどの長さがあった。この4つ目の切り込みによって、弾丸が銃口を離れた際に、弾丸を巻く紙がより剥がれやすくなった。 そして、1861年11月4日に採用されたエンフィールド銃の最終モデルは、照準器の最大照準値が900ヤードから1000ヤード(914メートル)まで延長された。
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