エンフィールド銃への問題発生と、それに対する改良とは? わかりやすく解説

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エンフィールド銃への問題発生と、それに対する改良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 03:54 UTC 版)

エンフィールド銃」の記事における「エンフィールド銃への問題発生と、それに対する改良」の解説

エンフィールド銃は、インド大反乱大きく活躍したが、同時にインド過酷な戦場状況で、エンフィールド銃装填不可能になってしまうという問題発生していた。原因は、ファウリングや、砂塵、そして銃身内に起きた錆などであり、弾薬包紙包まれた.568口径エンフィールド弾は、銃身口径と0.001インチほどの差しかないことから、ほぼぴったりと銃口嵌ったため、これらの原因によってエンフィールド銃装填がかなり困難になってしまった。 1つ目の原因であるファウリング発生原因は、常に戦闘をしていた兵士たちが、銃を清掃できる暇がなかった事や、1857年弾薬包に付着しているグリース構成している一物質である獣脂が、インドでの酷暑溶けた事により、それを弾薬包紙吸収してしまうという問題発生しグリース潤滑剤としての役割果たさずファウリング防止しなかった事、2つ目の砂塵原因は、空気中を舞う大量の砂が、進行中イギリス兵士達エンフィールド銃銃身内に侵入してしまった事、そして3つ目の銃身内の錆の原因は、ファウリングによって銃身内に残る黒色火薬燃えかすが、吸収する性質を持つ炭酸カリウムである事から、空気中の水蒸気取り込み兵士クリーニング不足からそのまま銃身錆びさせてしまった事であったインド内にいたイギリス部隊は、特に1858年の夏の酷暑でとても苦戦していた。この問題一例として、第71歩兵連隊(英:71st (Highland) Regiment of Foot )のコンチ(英:Konch )での戦闘知られている。1858年5月7日イギリス部隊は、コンチ(英:Konch )で戦闘行っていた。その時気温は46.1度であり、数日後には54.4度まで到達していた。第71歩兵連隊(英:71st (Highland) Regiment of Foot )は、一日中戦闘行なっていた。この時の猛暑のせいで、その隊のうちの12人が熱中症によって死亡していた。そして、上記3つの原因などでエンフィールド銃装填不可となっており、セポイ達の滑腔銃は、ライフリングなどがなく、弾丸直径銃身直径かなりの差がある事から、装填が可能であった。これらの問題発生した事によって、エンフィールド銃対す信頼がほとんど失われつつあった。 エンフィールド銃装填不可能になる問題はかなり深刻で、エンフィールド銃10~12発ほどの発砲使い物にならなくなり兵士は、エンフィールド銃をラムロッドを銃身内に差し込んだ状態で壁や木に打ちつけ装填しようとしていた。かつて、エンフィールド銃弾薬包がクリミア戦争プリチェットと共に失敗した時は、エンフィールド銃投入が遅れ、かつ少数であった事から、大した問題ではなかったが、インド大反乱では、エンフィールド銃が殆どの連隊配備されていたため、この装填難化問題は、とても大惨事であった。そのため、エンフィールド銃への信頼は、軍事使用諦めようとするレベルまで達していた。 この問題は、陸軍評価ガタ落ちさせたが、最終的な責任装填難化問題根本的原因であった1857年エンフィールド弾薬包の製造行なっていた王立研究所(英:Royal Arsenal)にあった。 そして、このエンフィールド銃装填難化問題解決するために、王立研究所(英:Royal Arsenal)の最高責任者であったエドワード・ムーニエ・ボクサー(英:Edward Mounier Boxer ) は、獣脂比べて融点高くて溶けにくい純粋な蜜蝋が、弾薬包の潤滑剤として使用できるかを試すための研究開始する様になる獣脂は、様々な欠点存在しており、それはとても深刻なものであった1857年終わり頃、ヘイ大佐は、蜜蝋獣脂を1:5の割合構成したグリース漬けられ弾薬包を用いた装填発砲観察したところ、獣脂弾丸対す痛烈的な効果発見した。そしてインドにあるエンフィールド弾薬包は、装填異常に難しくなっており、グリース機能しなくなっていた。この問題は、インドなどの非常に熱い気候の場所によって引き起こされ可能性があり、問題の原因は、弾丸の鉛と獣脂との間で酸化起き、それによって弾丸周り白色の錆が多く付着し直径増加してしまうことで装填難しくなり、発生する酸性物質によってグリースが完全に破壊されてしまう事であった獣脂原因この様問題発生したため、純粋な蜜蝋いかなる天候でも装填可能であるか、そしてファウリング防げるかを試すために、ボクサー1857年第二4半期から実験開始した蜜蝋は、獣脂比べて硬い事から、蜜蝋漬けた弾薬包は装填キツくなってしまう。これに対すボクサー解決策二つあり、一つは、弾薬包の底を高温蜜蝋漬け弾薬包紙吸収させる方法で、もう一つは、弾薬包の底を通常温度蜜蝋漬け、その弾薬包を.582口径高温鉄製リング(ゲージ)に通す事で蜜蝋を溶かし、蜜蝋による弾薬包の直径増加減少させる方法であった。これらの方法によって装填キツくならなくなると考えられた。実験後、ボクサー蜜蝋弾薬包の潤滑剤として提案した。 しかし、このボクサー2つ解決策上手くいくことはなかった。1857年エンフィールド弾薬包に採用されていた蜜蝋獣脂を5:1の割合構成したグリースは、涼し気候などの多く場合において装填がとてもキツく、弾丸自身を包む弾薬包紙貫通してしまう現象発生する事で命中精度低下装填速度低下問題存在していた。ヘイ大佐は、蜜蝋獣脂を5:1の割合構成したグリース漬けた弾薬包に、ボクサー2つ解決策取り入れて試した所、ボクサー2つ解決策問題を少し解決することしかできなかった。この事から、ヘイ大佐は、純粋な蜜蝋が、弾薬包の潤滑剤として上手く機能しないだろうという事と、現在採用されているグリース猛暑以外では上手く機能しないだろうという事意見した。 そのため、ヘイ大佐獣脂蜜蝋4:1割合混ぜたグリース提案したヘイ大佐は他にも、純粋な蜜蝋は、弾薬包が兵士胴乱の中で揺れたりする事で、弾薬包から取れてしまうという異議述べ1853年の頃に作られエンフィールド弾薬包が、今でも良い状態であったことを何度も見かけ経験から、獣脂引き起こす弾丸発錆問題に関しては何も言及しなかった。 この様にしてヘイ大佐ボクサーとの間では、獣脂蜜蝋構成されグリースか、純粋な蜜蝋かの採用激し議論繰り広げられた。両者意見には重みがあり、ボクサーは、獣脂欠点(弾丸に錆を起こしたり、溶けて弾薬包を濡らしてしまう事など)を科学的に証明する事ができ、ヘイ大佐は、マスケトリー学校(英:Small Arms School Corps)での数年分の経験から、獣脂必要性証明する事ができた。 1858年2月9日ヘイ大佐は、様々なグリース用意し実験下士官行わせる様に指示された。複数実験の後、1858年2月12日には、ヘイ大佐を含む実験への参加者全員は、純粋な蜜蝋軍用弾薬包の潤滑剤として使用する事が不可能になるだろうという事確認した。そして、ヘイ大佐は、蜜蝋獣脂を1:4の割合構成したグリースを再び強く提案した次に獣脂欠点を防ぐ事と蜜蝋弾薬包から取れてしまう問題を防ぐ事を目的として、新たな実験開始された。実験では3つのグリース用意されそれぞれ蜜蝋獣脂が5:1、2:1、1:4の割合組み合わされていた。弾薬包から蜜蝋取れてしまう問題防ぎ弾薬包をより装填しやすくする為に弾薬包は110度の温度温められグリース漬けられた後、54.4度の.582口径鉄製ゲージ通された。射撃は、1.1度の寒い中で行われたテスト後、蜜蝋獣脂を5:1で構成したグリースが、寒い天気の中では、ファウリングを防ぐ事と装填容易にすることにおいて最も良かった事が判明した。そのため蜜蝋獣脂を5:1で構成したグリースが再び提案された。しかし、兵士装填などが雑であると、上記二つ方法作られ蜜蝋獣脂を5:1で構成したグリース漬けた弾薬であっても上手く機能しなかった。そして、ヘイ大佐は、この実験の結果反対し、拒否した。 これらの事から、弾薬包を温めたり蜜蝋温めたり、.582口径鉄製ゲージ扱ったりするなどのボクサー対策は、問題解決することはできず、全て失敗した。しかし、ボクサーは、エンフィールド銃装填難化問題解決する鍵は、蜜蝋弾薬包の潤滑剤として扱える様に改良するではなく、.568口径エンフィールド弾に改良加え事だと気づいた。 ボクサーは、エンフィールド弾の口径を、.568口径から0.018インチ縮小し、.550口径(13.97mm)にする事を提案した。この提案には、弾丸銃身との間にある隙間を0.001インチから0.018インチまで増大することによって、純粋な蜜蝋漬けられ弾薬でも、装填楽に行え様になるという考えがあった。 しかし、この提案対す反応は、かなり懐疑的なのだったヘイ大佐などの多く軍人は、弾丸口径縮小すれば、銃身弾丸との間の隙間大きく増加し、それによってガス漏れるなどして弾丸威力弱まったり、射程減少したり、精度低下したりするなど、様々な問題露呈してしまうと考えた。 しかし、エンフィールド弾の空洞内にある木製プラグ大きな拡張によって、例え口径収縮されていたとしても、エンフィールド弾は十分に拡張してライフリング吻合する事ができた。ボクサーは、.550口径エンフィールド弾は、.568口径エンフィールド弾と同等精度、又はそれよりも優れた精度を出す可能性があると主張し1858年3月14日に、ボクサーが.550口径エンフィールド弾を実際にテストした所、800ヤード先での射撃において、.550口径エンフィールド弾は「公正な射撃」が可能である事が証明された。 1858年7月には、委員会設立され委員会は、.550口径エンフィールド弾の精度と、弾丸銃身内での移動確認する為にテストするよう指示された。 .550口径エンフィールド弾を装填したライフルは、逆さまにされ、揺らされ叩きつけられたが、銃身内で移動することはなかった。.550口径エンフィールド弾はとても装填しやすく、ラムロッドの重量だけで銃身の底まで落ち、ほんの僅かにラムロッドを押すだけでよかった複数発砲によって銃身熱くなり、弾薬包の蜜蝋溶けだすようにになると、弾丸自身重量だけで銃身の底まで落ちようになった。そして、.550口径エンフィールド弾は、.568口径エンフィールド弾よりも多く蜜蝋弾薬包に保持させる事ができたため、より多く蜜蝋銃身全体行き渡らせることができた。結果的に明らかなファウリング減少得られた。 .550口径エンフィールド弾に感銘受けた委員会は、.550口径エンフィールド弾の迅速な採用熱心に提案した。.550口径エンフィールド弾が優秀なのは明らかで、.568口径エンフィールド弾との精度同等で、初速より速く、より弾道が低伸であった。そして、最悪な天候下では、ファウリング最小限度まで抑えた。 .550口径エンフィールド弾は、1858年7月26日インドでの軍事使用採用され、そして1859年2月21日イギリス軍全体採用された。しかし、.550口径エンフィールド弾が委員会によって提案されても、.550口径エンフィールド弾は物議を醸し出したままであったヘイ少将は.550口径エンフィールド弾を好んでおらず、採用数ヶ月後も彼は弾丸反対続けた1859年5月ヘイ少将は.550口径エンフィールド弾の射撃観察し1859年5月31日には、.550口径エンフィールド弾は、400ヤード以降の距離で効果的でなくなることは明らかであり、その様弾丸によってライフル射程制限され戦場での効率的な働き大幅に低下してならない意見述べたヘイ大佐この様なことから、.550口径エンフィールド弾を認めなかったのであるボクサーは、エンフィールド弾のプラグにも変更加えた1856年以降木製プラグ湿気乾燥によって膨張収縮起こさないようにするために柘植から作られていたが、柘植はとても高価であり、イラストレイテド・ニュースペーパーなどに用いられている事から需要がとても高く輸入量が需要追いつけずにいた。そのため、ボクサーは、プラグ材料である柘植代わり探していた。 そして彼は、1861年頃からプラグ材料を、柘植からセラミック粘土へと移行する事を開始する粘土プラグ挿入した.550口径エンフィールド弾は、温度湿気などに影響されることは一切なく、精度の点においては木製プラグ挿入したものよりも優れていた。そうして粘土プラグイギリス軍全体実験的に導入した後、1864年2月2日には粘土プラグ正式に採用された。 1857年頃に出版1858年頃に覆刻された新たな歩兵マニュアルでは、エンフィールド銃装填方法は、弾薬包の先端部分を口で噛みちぎる方法から左手千切方法へと変更されていたが、1857年エンフィールド弾薬包は、内側弾薬包紙がとても長いため、弾薬包の先端部分2枚の紙が捻じられていた。そのため、この弾薬包は、先端部分を口で噛みちぎる事は楽だったものの、手で千切る事が困難であった。そのため装填ぎこちなくなり、そして引きちぎる勢いが強すぎるせいで、弾薬内の火薬を少し漏らしてしまった。 この様問題解決するために、ボクサーは、弾薬包にも改良加えたボクサーは、外側弾薬包紙全長短くし、内側弾薬包紙全長長くした。そして、長方形の細い紙を巻いて外側弾薬包紙内側弾薬包紙しっかりと固定する構造にした。これにより、内側弾薬包紙のみしか捻られないため、手で簡単に弾薬包の先端千切る事が出来た。そして全長長くなった内側弾薬包紙により、火薬漏れ出す事は無く長方形の紙のキツイ巻き付けによって、弾薬包の緩みによる分解防いだボクサーは、この新型弾薬包を1858年初めに提案し1858年春にはこの提案提出された。ヘイ大佐は、この新型弾薬包をテストし1858年4月15日には、新型弾薬包の性能良かったが、提案する事はできないヘイ大佐意見した。そしてヘイ大佐は、新型弾薬包は火薬銃口内へと流し込みにくいなどの様々な異議唱えたが、それらは全く説得力のないものであった。 そうして、この新型弾薬包は、1859年エンフィールド弾薬包としてイギリス軍全体採用された。 1859年10月10日には、外側弾薬包紙四つ目切り込み入れられた。これは、既に完成した弾薬包を蜜蝋漬けた後に切り込まれエンフィールド弾の全長ほどの長さがあった。この4つ目の切り込みによって、弾丸銃口離れた際に、弾丸を巻く紙がより剥がれやすくなった。 そして、1861年11月4日採用されエンフィールド銃最終モデルは、照準器最大照準値が900ヤードから1000ヤード(914メートル)まで延長された。

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