エンフィールド銃の、インド大反乱での活躍とは? わかりやすく解説

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エンフィールド銃の、インド大反乱での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 03:54 UTC 版)

エンフィールド銃」の記事における「エンフィールド銃の、インド大反乱での活躍」の解説

訓練はされてはいたものの、近代的な軍隊などがなく、滑腔銃などの旧式武器武装していたセポイ達に対しイギリス軍は、近代的な軍隊の階級制度があり、マスケトリー学校(英:Small Arms School Corps)で、射撃訓練をされた兵士エンフィールド銃武装していたため、インド大反乱戦闘では、セポイ達を圧倒した長距離からエンフィールド銃セポイ歩兵や、騎兵砲兵部隊などを蹂躙したなどという事が、日常茶飯事レベル発生していた。そして、エンフィールド銃活躍した戦いの様子などは、当時人間によって書籍など書かれる事もあり、現代伝えられている。この項では、その様書籍から引用してエンフィールド銃活躍解説する初めに解説するのは、第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))、第64歩兵連隊、第84歩兵連隊、第78歩兵連隊(英:78th (Highlanders) Regiment of Foot)と、義勇騎兵王立砲兵連隊 (英:Royal Artillery)、そして先住民兵士合計1964名で構成されイギリス部隊が、イギリス将軍であるヘンリー・ハヴロック(英:Henry Havelock)指揮の下、インド行った侵攻の事である。この部隊の内、第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))と、第64歩兵連隊、そして第78歩兵連隊(英:78th (Highlanders) Regiment of Foot)がエンフィールド銃武装していた。 エンフィールド銃初め大きく活躍した戦いは、1857年7月12日起きた ファテープルの戦い であった。イギリス軍砲兵部隊と、エンフィールド銃武装した64歩兵連隊兵士100人は、進軍しており、滑腔銃で武装していた残り部隊は、エンフィールド銃武装した102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))に守られながら湿地渡った。 この時にエンフィールド銃武装したイギリス部隊が、初めセポイ達と接敵した。セポイたちは、エンフィールド銃射程理解していなかった。そのため、セポイ達は、エンフィールド銃の長射程と高い精度驚愕し混乱したエンフィールド銃この様効果的な発砲によって、セポイ達は、士気低下し隊列崩した。そして、セポイ達の滑腔銃による発砲は、射程不足である事から全く効果がなかった。 エンフィールド銃援護射撃によって、砲兵部隊は9ポンド砲を敵勢力の側面から200ヤードほど離れた距離まで持ち込むことができた。そして、ぶどう弾用いた9ポンド砲とエンフィールド銃射撃で、セポイ達を撃破しセポイ達は、武器捨てて撤退した。 しかし、セポイ達は再び勢力集結させ、ファテープルから1マイルほど離れた所を占拠したイギリス部隊は再び前進し、第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))は、セポイ達の滑腔銃の射程外からエンフィールド銃発砲行なったジャーナリストのアーチボルド・フォーブス(英:Archibald Forbes)は、自身著書Havelock」にてこのエンフィールド銃発砲によってセポイ達が士気阻喪する様子を以下の様に述べている。 敵は、その場で壁に隠れながら、防御態勢移ろうとしている様に見えた。しかし、エンフィールド弾がそこに着弾するようになると、彼らは士気喪失した。そして彼らは急いで撤退したその後セポイ騎兵勢力が、イギリス部隊側面から攻撃加えるために移動開始した。第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))の内のいくつかの部隊散兵攻撃をする様に命令された。それらの部隊は、セポイ騎兵勢力向かって長距離からの射撃開始した。この射撃によって、短時間セポイ騎兵勢力に正確かつ決定的な打撃与えた。そうして残りセポイ騎兵勢力撤退しセポイ達も12門の砲を破棄して撤退した。この戦いでイギリス側一人兵士も失うことはなかった。 イギリス部隊は、カンプール向かって進軍開始した進軍するたびに彼らは接敵し、エンフィールド銃用いて敵を撃破していった。そして ファテープルの戦い から3日後の1857年7月15日には、イギリス部隊洪水起こしていたパンドゥー川( 英:PANDOO NUDDEE)へと到着した。 滑腔銃で武装していたセポイ達は、イギリス部隊カーンプルへと向かえ唯一の道である出口辺りに、24ポンド砲とカロナーデと共に防御態勢にいた。そして、セポイ達は、イギリス部隊進軍する際に、唯一の通り道である橋を壊すという思惑があった。 第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))は横に広がった形で展開しエンフィールド銃発砲行いセポイ歩兵騎兵撃破したその後、第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))は突撃行い渡り、敵の砲を捕獲した。そしてイギリス部隊カンプールへと進行続けた1857年7月16日には、カーンプル戦闘発生した。そこでもエンフィールド銃大きく活躍しエンフィールド銃武装したイギリス軍部隊は、進軍するたびに接敵し、敵を撃破していった。そして、エンフィールド銃の長射程における高い精度生かされ遠くの距離にいるセポイ達を一掃し、より多くの敵砲兵部隊撃破し砲撃を黙らせた。あるイギリス人下士官はこの戦いで活躍したエンフィールド銃を、「 The history of the Indian revolt, and of the expeditions to Persia, China, and Japan, 1856-7-8 [signed G.D.] 」にてこの様述べている。 我々のエンフィールド銃は、全てやってのけたカーンプルでの戦闘後イギリス部隊は、進軍するたびに接敵し、同じ様にエンフィールド銃撃破していったイギリス部隊は、ラクナウ到着した。そして、部隊兵士負傷していたり、病気かかっていたりしたため進行停止した。 その数ヶ月後、かつて、クリミア戦争一つ大きな戦いであるバラクラヴァの戦いで、1851年ライフルマスケット用いてロシア騎兵勢力撃退したことで知られる93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)が、エンフィールド銃用いて大きな活躍を行うことになる。 1857年11月16日の夜、シャーナジャフ(英:Imambara Shah Najaf)に第93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)を含むイギリス部隊進軍した。そして、シャーナジャフ(英:Imambara Shah Najaf)の中に大量火薬(2267キログラム程量)によって出来た山がある事を発見し爆発する危険を恐れたため、丁重にかつすぐさま火薬移した。 そして同年11月17日の朝、セポイ砲兵達は、ゴムティ川(英:Goomtee river)付近のバッドシャヒバッグ(英:Badshahi bagh)から 焼玉式焼夷弾用いた砲撃開始したセポイ達は、シャーナジャフ(英:Imambara Shah Najaf)内にある大量火薬に、砲弾当てて爆発させ、イギリス軍大打撃与えるという思惑があったが、すでに移されていたため、その様な事は起こらなかった。そのため、そのまま砲撃続けた。 そしてセポイ達は、砲撃精度をより高めるため、ゴムティ川(英:Goomtee river)まで進軍し、再び砲撃開始した。ここで、訓練されイギリス兵士達エンフィールド銃がその高い性能発揮した。第93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)の下士官であるウィリアム・フォーブス・ミッチェル(英:William Forbes Mitchell)は、エンフィールド銃の高い精度長い射程活かした様子を、自身著書である「Reminiscences of the Great Mutiny 1857-59: Including the Relief, Siege, and Capture of Lucknow, and the Campaigns in Rohilcund and Oude」にて以下の様に述べたすぐさま我々のライフル清掃された後、川(ゴムティ川)の向こう、バッドシャヒバッグの砲台から、墓(シャーナジャフ)への焼玉式焼夷弾用いた煩わしい砲撃をし、距離を縮め為にゲートの外の開けた土地まで砲を持ってきた砲兵達(セポイ)の砲撃黙らせるため、部隊の中からいくつかのベストショット(射撃において特に腕が優れる者のこと)を選定した。彼ら(セポイ)はエンフィールド銃射程明らかに理解しておらず、シャーナジャフから1000~1200ヤード程(914~1097メートル)離れた川(ゴムティ川)の隣の所に居た丁寧に清掃されて装填されライフル装備した20人のベストショットは、かなりの数の敵がライフル射程内に入るまで見て照準器最大まで調整し、そして丁寧に高く照準定め、「1、2撃て!」という号令発砲した。この発砲で、6人ほどの敵を撃破した。すぐに、彼らは砲をバッドシャヒバッグへと撤退させ、門を閉めた。そして二度と我々を妨害しなかった。 セポイ砲兵達のバッドシャヒバッグ(英:Badshahi bagh)からの砲撃を黙らせた後も、第93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)と、その他のイギリス軍部隊休息はなかった。600700人程のセポイ歩兵がシャーナジャフ(英:Badshahi bagh)を奪還する事を決定し進行開始した歩兵達は、勇敢な突撃敢行したが、エンフィールド銃武装した93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)は、その突撃阻止した。ウィリアム・フォーブス・ミッチェルは、その様子を、同じく「Reminiscences of the Great Mutiny 1857-59: Including the Relief, Siege, and Capture of Lucknow, and the Campaigns in Rohilcund and Oude」にて以下の様に述べている。 ドーセン大尉は、敵の進行見ており、そこまでの距離を測定していた。そして、彼はすぐに「注目500ヤード1、2撃て!」と号令をかけた。80人が一斉射撃をし、殆どが敵に命中、そして多くの敵が同時に倒れた。ゴムティー川へと向かっていた騎乗しているリーダーとその馬にも命中し、川にたどり着く前に倒れた最初斉射の後、兵士それぞれが、各自装填発砲行なった。そうしてすぐに、開けた土地には、死体怪我をした敵が散らばっていた。 この第93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)の活躍数ヶ月後には、エンフィールド銃武装した82歩兵連隊(英:82nd Regiment of Foot (Prince of Wales's Volunteers )がエンフィールド銃用いて大きな活躍をする事となった。 1858年4月6日深夜前、第82歩兵連隊(英:82nd Regiment of Foot (Prince of Wales's Volunteers )を含むイギリス部隊は、ファテーガル(英:Fatehgarh )を出て、カンカール(英:Kankar)へと進行した。そしてそこで、セポイ歩兵部隊が、砲撃開始した戦闘開始するために、イギリス部隊セポイとの距離を縮めた。突然、セポイ騎兵が、駐屯地から移動開始し、この騎兵勢力は、敵を挟み撃ち撃退するために、二手分かれ大き勢力は、イギリス部隊から見て左、小さ勢力は、右へと移動した。この騎兵勢力は、イギリス部隊武器射程が滑腔銃並みであると勘違いしており、イギリス部隊からの射撃晒され完璧に安全であると確信したことから、この様作戦打って出た。そして、この騎兵勢力武装しており、このは、先端光っていたために、自分たちが、イギリス部隊から700ヤード(640メートル)先にいる事を知らしてしまった。 第82歩兵連隊(英:82nd Regiment of Foot (Prince of Wales's Volunteers )の2部隊は、左から側面攻撃をしようとする騎兵勢力撃退するために戦闘の準備をした。イギリス軍大佐のトーマス・シートンは、エンフィールド銃を、「武器王様」と呼びエンフィールド銃用いた部隊大量発砲によって、騎兵勢力混乱を招かせた様子を、自身著書である「From Cadet to Colonel: The Record of a Life of Active Service, 第 2 巻」にて以下の様に述べている。 これは迅速に遂行された。兵士達は、列を緩めると、下士官示した距離に、冷静にかつ的確に発砲行なった数分後、それぞれの兵士が3発目の発砲を行う前に、突然、騎兵勢力混乱し始めたヘイル大佐大声が、兵士達着実に、冷静かつ正確な発砲行えるように勇気づけた。騎兵勢力すぐさま逃げ出し、それを追うようにして、我々の騎兵隊が、移動はじめた。そして我々の横隊からは、嘲笑叫び聞こえた。私は、この時に初めエンフィールド銃戦場使用され様子見て、このライフル武器王様だと思った。 カンカール(英:Kankar)で、セポイ騎兵勢力排除した後、イギリス部隊は、セポイ歩兵が居る駐屯地への向かって発砲行なったイギリス軍下士官のジョージ・ヴィッカースは、その長距離における発砲によってセポイ達を撃破した様子を、自身著書にて「Narrative of the Indian Revolt」にて以下の様に述べている。 (敵の)歩兵部隊には、数千ほどの兵士がおり、きちんと整列されていなかった。上級大佐(トーマス・シートン)の部隊長距離から彼らへの射撃開始した。そして我々の発砲で、彼ら(セポイ)は、混乱し、奥へと撤退した。我々の部隊前進し、第82歩兵連隊は、エンフィールド銃発砲開始した。そして多くの敵を撃退した。 この戦闘で、イギリス部隊は、兵士3人が死亡し17人が負傷したが、セポイ側は、250人が死亡し多く負傷した。 第82歩兵連隊(英:82nd Regiment of Foot (Prince of Wales's Volunteers )を含むイギリス部隊は、この戦いから数ヶ月後の、1858年10月8日には、ブンカゴン(英:Bunkagong)で戦うことになった。この戦いが、インド大反乱最後の戦いであった反乱勢力は、ポワイ(英:Powai )を取り囲み近くから燃やし始めていった。イギリス部隊は、早朝進行開始し、陽が上った時には、ブンカゴン(英:Bunkagong)に到着した。しかし、セポイ側のピケット警告した事で、セポイ砲兵達が榴散弾による砲撃開始したイギリス部隊は、整列準備をさせると、セポイ騎兵勢力が、移動開始しナポレオン戦争の頃の戦術である側面攻撃イギリス部隊に対して行なった。トーマス・シートンは、エンフィールド銃武装した60歩兵連隊 と、第82歩兵連隊(英:82nd Regiment of Foot (Prince of Wales's Volunteers )が、この騎兵勢力による攻撃防ぎ撃退した事を「From Cadet to Colonel: The Record of a Life of Active Service, 第 2 巻」にて以下の様に述べている。 我々の砲兵部隊砲撃開始すると、敵の騎兵勢力前進始め両方が我々の側面から向かってきた。すぐに彼らが、我々から700ヤードの距離に居ると、私は、第60歩兵連隊と、第82歩兵連隊に、エンフィールド銃威力を試させた。私は、左から向かってくる大きい方の騎兵勢力見た。左にある道を通って、我々の部隊後部へと入り込むため、彼らは、沼の端に沿って我々に向かってきていた。彼らが、木々隙間から見えると、第82歩兵連隊歩兵部隊は、彼らに向かって射撃開始した。我々は、彼らの頭や肩、馬の頭が、草原から見えた。この射撃効果興味深かった騎兵勢力は、突然停止して見回し驚いて未知方向から来る強力な弾丸の嵐の警告をした。騒音鳴り混乱によって(騎兵勢力の)列は崩れ、馬は恐怖により後ろ足で立ち始めてよろけ、騎乗している者は、倒れ始めた。私にとって、この様状況は、とても珍しかった。そして、騎兵勢力は、方向転換し撤退したイギリス部隊は、この戦いで勝利することができ、イギリス側2人死亡12負傷という損害出しながらも、反乱勢力側に300死亡という損害与えることができた。これらの事から、エンフィールド銃武装したイギリス軍は、見事にインド大反乱収めることができた。

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