エンフィールド銃の、インド大反乱での活躍
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「エンフィールド銃」の記事における「エンフィールド銃の、インド大反乱での活躍」の解説
訓練はされてはいたものの、近代的な軍隊などがなく、滑腔銃などの旧式武器で武装していたセポイ達に対し、イギリス軍は、近代的な軍隊の階級制度があり、マスケトリー学校(英:Small Arms School Corps)で、射撃訓練をされた兵士がエンフィールド銃を武装していたため、インド大反乱の戦闘では、セポイ達を圧倒した。長距離からエンフィールド銃でセポイの歩兵や、騎兵、砲兵部隊などを蹂躙したなどという事が、日常茶飯事のレベルで発生していた。そして、エンフィールド銃が活躍した戦いの様子などは、当時の人間によって書籍などに書かれる事もあり、現代に伝えられている。この項では、その様な書籍から引用してエンフィールド銃の活躍を解説する。 初めに解説するのは、第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))、第64歩兵連隊、第84歩兵連隊、第78歩兵連隊(英:78th (Highlanders) Regiment of Foot)と、義勇騎兵、王立砲兵連隊 (英:Royal Artillery)、そして先住民兵士の合計1964名で構成されたイギリスの部隊が、イギリスの将軍であるヘンリー・ハヴロック(英:Henry Havelock)指揮の下、インドへ行った侵攻の事である。この部隊の内、第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))と、第64歩兵連隊、そして第78歩兵連隊(英:78th (Highlanders) Regiment of Foot)がエンフィールド銃を武装していた。 エンフィールド銃が初めて大きく活躍した戦いは、1857年7月12日に起きた ファテープルの戦い であった。イギリス軍の砲兵部隊と、エンフィールド銃で武装した 第64歩兵連隊 の兵士100人は、進軍しており、滑腔銃で武装していた残りの部隊は、エンフィールド銃で武装した第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))に守られながら湿地を渡った。 この時に、エンフィールド銃で武装したイギリスの部隊が、初めてセポイ達と接敵した。セポイたちは、エンフィールド銃の射程を理解していなかった。そのため、セポイ達は、エンフィールド銃の長射程と高い精度に驚愕し、混乱した。エンフィールド銃のこの様な効果的な発砲によって、セポイ達は、士気が低下し、隊列を崩した。そして、セポイ達の滑腔銃による発砲は、射程不足である事から全く効果がなかった。 エンフィールド銃の援護射撃によって、砲兵部隊は9ポンド砲を敵勢力の側面から200ヤードほど離れた距離まで持ち込むことができた。そして、ぶどう弾を用いた9ポンド砲とエンフィールド銃の射撃で、セポイ達を撃破し、セポイ達は、武器を捨てて撤退した。 しかし、セポイ達は再び勢力を集結させ、ファテープルから1マイルほど離れた場所を占拠した。イギリスの部隊は再び前進し、第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))は、セポイ達の滑腔銃の射程外からエンフィールド銃で発砲を行なった。ジャーナリストのアーチボルド・フォーブス(英:Archibald Forbes)は、自身の著書「Havelock」にてこのエンフィールド銃の発砲によってセポイ達が士気阻喪する様子を以下の様に述べている。 敵は、その場で壁に隠れながら、防御態勢に移ろうとしている様に見えた。しかし、エンフィールド弾がそこに着弾するようになると、彼らは士気喪失した。そして彼らは急いで撤退した。 その後、セポイの騎兵勢力が、イギリスの部隊の側面から攻撃を加えるために移動を開始した。第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))の内の、いくつかの部隊は散兵攻撃をする様に命令された。それらの部隊は、セポイの騎兵勢力に向かって長距離からの射撃を開始した。この射撃によって、短時間でセポイの騎兵勢力に正確かつ決定的な打撃を与えた。そうして残りのセポイの騎兵勢力は撤退し、セポイ達も12門の砲を破棄して撤退した。この戦いで、イギリス側は一人の兵士も失うことはなかった。 イギリスの部隊は、カンプールに向かって、進軍を開始した。進軍するたびに彼らは接敵し、エンフィールド銃を用いて敵を撃破していった。そして ファテープルの戦い から3日後の1857年7月15日には、イギリスの部隊は洪水を起こしていたパンドゥー川( 英:PANDOO NUDDEE)へと到着した。 滑腔銃で武装していたセポイ達は、イギリスの部隊がカーンプルへと向かえる唯一の道である橋の出口辺りに、24ポンド砲とカロナーデと共に防御態勢にいた。そして、セポイ達は、イギリスの部隊が進軍する際に、唯一の通り道である橋を壊すという思惑があった。 第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))は横に広がった形で展開し、エンフィールド銃で発砲を行い、セポイの歩兵と騎兵を撃破した。その後、第102歩兵連隊(英:102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))は突撃を行い、橋を渡り、敵の砲を捕獲した。そしてイギリスの部隊はカンプールへと進行を続けた。 1857年7月16日には、カーンプルで戦闘が発生した。そこでもエンフィールド銃は大きく活躍し、エンフィールド銃で武装したイギリス軍の部隊は、進軍するたびに接敵し、敵を撃破していった。そして、エンフィールド銃の長射程における高い精度が生かされ、遠くの距離にいるセポイ達を一掃し、より多くの敵砲兵部隊を撃破して砲撃を黙らせた。あるイギリス人下士官はこの戦いで活躍したエンフィールド銃を、「 The history of the Indian revolt, and of the expeditions to Persia, China, and Japan, 1856-7-8 [signed G.D.] 」にてこの様に述べている。 我々のエンフィールド銃は、全てやってのけた。 カーンプルでの戦闘後、イギリスの部隊は、進軍するたびに接敵し、同じ様にエンフィールド銃で撃破していった。イギリスの部隊は、ラクナウに到着した。そして、部隊の兵士は負傷していたり、病気にかかっていたりしたため、進行を停止した。 その数ヶ月後、かつて、クリミア戦争の一つの大きな戦いであるバラクラヴァの戦いで、1851年型ライフルマスケットを用いてロシアの騎兵勢力を撃退したことで知られる第93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)が、エンフィールド銃を用いて大きな活躍を行うことになる。 1857年11月16日の夜、シャーナジャフ(英:Imambara Shah Najaf)に第93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)を含むイギリスの部隊が進軍した。そして、シャーナジャフ(英:Imambara Shah Najaf)の中に、大量の火薬(2267キログラム程量)によって出来た山がある事を発見し、爆発する危険を恐れたため、丁重にかつすぐさま火薬を移した。 そして同年11月17日の朝、セポイの砲兵達は、ゴムティ川(英:Goomtee river)付近のバッドシャヒバッグ(英:Badshahi bagh)から 焼玉式焼夷弾を用いた砲撃を開始した。セポイ達は、シャーナジャフ(英:Imambara Shah Najaf)内にある大量の火薬に、砲弾を当てて爆発させ、イギリス軍に大打撃を与えるという思惑があったが、すでに移されていたため、その様な事は起こらなかった。そのため、そのまま砲撃を続けた。 そしてセポイ達は、砲撃精度をより高めるため、ゴムティ川(英:Goomtee river)まで進軍し、再び砲撃を開始した。ここで、訓練されたイギリス兵士達のエンフィールド銃がその高い性能を発揮した。第93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)の下士官であるウィリアム・フォーブス・ミッチェル(英:William Forbes Mitchell)は、エンフィールド銃の高い精度と長い射程を活かした様子を、自身の著書である「Reminiscences of the Great Mutiny 1857-59: Including the Relief, Siege, and Capture of Lucknow, and the Campaigns in Rohilcund and Oude」にて以下の様に述べた。 すぐさま我々のライフルが清掃された後、川(ゴムティ川)の向こう、バッドシャヒバッグの砲台から、墓(シャーナジャフ)への焼玉式焼夷弾を用いた煩わしい砲撃をし、距離を縮める為に、ゲートの外の開けた土地まで砲を持ってきた砲兵達(セポイ)の砲撃を黙らせるため、部隊の中からいくつかのベストショット(射撃において特に腕が優れる者のこと)を選定した。彼ら(セポイ)はエンフィールド銃の射程を明らかに理解しておらず、シャーナジャフから1000~1200ヤード程(914~1097メートル)離れた川(ゴムティ川)の隣の所に居た。丁寧に清掃されて装填されたライフルを装備した20人のベストショットは、かなりの数の敵がライフルの射程内に入るまで見て、照準器を最大まで調整し、そして丁寧に高く照準を定め、「1、2、撃て!」という号令で発砲した。この発砲で、6人ほどの敵を撃破した。すぐに、彼らは砲をバッドシャヒバッグへと撤退させ、門を閉めた。そして二度と我々を妨害しなかった。 セポイの砲兵達のバッドシャヒバッグ(英:Badshahi bagh)からの砲撃を黙らせた後も、第93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)と、その他のイギリス軍の部隊に休息はなかった。600〜700人程のセポイの歩兵がシャーナジャフ(英:Badshahi bagh)を奪還する事を決定し、進行を開始した。歩兵達は、勇敢な突撃を敢行したが、エンフィールド銃で武装した第93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)は、その突撃を阻止した。ウィリアム・フォーブス・ミッチェルは、その様子を、同じく「Reminiscences of the Great Mutiny 1857-59: Including the Relief, Siege, and Capture of Lucknow, and the Campaigns in Rohilcund and Oude」にて以下の様に述べている。 ドーセン大尉は、敵の進行を見ており、そこまでの距離を測定していた。そして、彼はすぐに「注目!500ヤード、1、2、撃て!」と号令をかけた。80人が一斉射撃をし、殆どが敵に命中、そして多くの敵が同時に倒れた。ゴムティー川へと向かっていた騎乗しているリーダーとその馬にも命中し、川にたどり着く前に倒れた。最初の斉射の後、兵士それぞれが、各自で装填と発砲を行なった。そうしてすぐに、開けた土地には、死体と怪我をした敵が散らばっていた。 この第93歩兵連隊(英:93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)の活躍の数ヶ月後には、エンフィールド銃で武装した第82歩兵連隊(英:82nd Regiment of Foot (Prince of Wales's Volunteers )がエンフィールド銃を用いて大きな活躍をする事となった。 1858年4月6日深夜前、第82歩兵連隊(英:82nd Regiment of Foot (Prince of Wales's Volunteers )を含むイギリスの部隊は、ファテーガル(英:Fatehgarh )を出て、カンカール(英:Kankar)へと進行した。そしてそこで、セポイの歩兵部隊が、砲撃を開始した。 戦闘を開始するために、イギリスの部隊はセポイとの距離を縮めた。突然、セポイの騎兵が、駐屯地から移動を開始し、この騎兵勢力は、敵を挟み撃ちで撃退するために、二手に分かれ、大きい勢力は、イギリスの部隊から見て左、小さい勢力は、右へと移動した。この騎兵勢力は、イギリスの部隊の武器の射程が滑腔銃並みであると勘違いしており、イギリスの部隊からの射撃に晒されず完璧に安全であると確信したことから、この様な作戦に打って出た。そして、この騎兵勢力は槍で武装しており、この槍は、先端が光っていたために、自分たちが、イギリスの部隊から700ヤード(640メートル)先にいる事を知らしてしまった。 第82歩兵連隊(英:82nd Regiment of Foot (Prince of Wales's Volunteers )の2部隊は、左から側面攻撃をしようとする騎兵勢力を撃退するために戦闘の準備をした。イギリス軍大佐のトーマス・シートンは、エンフィールド銃を、「武器の王様」と呼び、エンフィールド銃を用いた部隊の大量発砲によって、騎兵勢力に混乱を招かせた様子を、自身の著書である「From Cadet to Colonel: The Record of a Life of Active Service, 第 2 巻」にて以下の様に述べている。 これは迅速に遂行された。兵士達は、列を緩めると、下士官が示した距離に、冷静にかつ的確に発砲を行なった。数分後、それぞれの兵士が3発目の発砲を行う前に、突然、騎兵勢力は混乱し始めた。ヘイル大佐の大声が、兵士達が着実に、冷静かつ正確な発砲を行えるように勇気づけた。騎兵勢力はすぐさま逃げ出し、それを追うようにして、我々の騎兵隊が、移動をはじめた。そして我々の横隊からは、嘲笑の叫びが聞こえた。私は、この時に初めてエンフィールド銃が戦場で使用された様子を見て、このライフルが武器の王様だと思った。 カンカール(英:Kankar)で、セポイの騎兵勢力を排除した後、イギリスの部隊は、セポイの歩兵が居る駐屯地への向かって、発砲を行なった。イギリス軍下士官のジョージ・ヴィッカースは、その長距離における発砲によってセポイ達を撃破した様子を、自身の著書にて「Narrative of the Indian Revolt」にて以下の様に述べている。 (敵の)歩兵部隊には、数千ほどの兵士がおり、きちんと整列されていなかった。上級大佐(トーマス・シートン)の部隊は長距離から彼らへの射撃を開始した。そして我々の発砲で、彼ら(セポイ)は、混乱し、奥へと撤退した。我々の部隊は前進し、第82歩兵連隊は、エンフィールド銃で発砲を開始した。そして多くの敵を撃退した。 この戦闘で、イギリスの部隊は、兵士3人が死亡し、17人が負傷したが、セポイ側は、250人が死亡し、多くが負傷した。 第82歩兵連隊(英:82nd Regiment of Foot (Prince of Wales's Volunteers )を含むイギリスの部隊は、この戦いから数ヶ月後の、1858年10月8日には、ブンカゴン(英:Bunkagong)で戦うことになった。この戦いが、インド大反乱の最後の戦いであった。 反乱勢力は、ポワイ(英:Powai )を取り囲み、近くの村から燃やし始めていった。イギリスの部隊は、早朝に進行を開始し、陽が上った時には、ブンカゴン(英:Bunkagong)に到着した。しかし、セポイ側のピケットが警告した事で、セポイの砲兵達が榴散弾による砲撃を開始した。イギリスの部隊は、整列の準備をさせると、セポイの騎兵勢力が、移動を開始し、ナポレオン戦争の頃の戦術である側面攻撃をイギリスの部隊に対して行なった。トーマス・シートンは、エンフィールド銃で武装した 第60歩兵連隊 と、第82歩兵連隊(英:82nd Regiment of Foot (Prince of Wales's Volunteers )が、この騎兵勢力による攻撃を防ぎ、撃退した事を「From Cadet to Colonel: The Record of a Life of Active Service, 第 2 巻」にて以下の様に述べている。 我々の砲兵部隊が砲撃を開始すると、敵の騎兵勢力が前進を始め、両方が我々の側面から向かってきた。すぐに彼らが、我々から700ヤードの距離に居ると、私は、第60歩兵連隊と、第82歩兵連隊に、エンフィールド銃の威力を試させた。私は、左から向かってくる大きい方の騎兵勢力を見た。左にある道を通って、我々の部隊の後部へと入り込むため、彼らは、沼の端に沿って我々に向かってきていた。彼らが、木々の隙間から見えると、第82歩兵連隊の歩兵部隊は、彼らに向かって射撃を開始した。我々は、彼らの頭や肩、馬の頭が、草原から見えた。この射撃の効果は興味深かった。騎兵勢力は、突然停止して見回し、驚いて、未知の方向から来る強力な弾丸の嵐の警告をした。騒音が鳴り、混乱によって(騎兵勢力の)列は崩れ、馬は恐怖により後ろ足で立ち始めてよろけ、騎乗している者は、倒れ始めた。私にとって、この様な状況は、とても珍しかった。そして、騎兵勢力は、方向転換し、撤退した。 イギリスの部隊は、この戦いでも勝利することができ、イギリス側は2人死亡、12人負傷という損害を出しながらも、反乱勢力側に300人死亡という損害を与えることができた。これらの事から、エンフィールド銃で武装したイギリス軍は、見事にインド大反乱を収めることができた。
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