アルゼンチンとチリの迎撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:00 UTC 版)
「南アメリカの建艦競争」の記事における「アルゼンチンとチリの迎撃」の解説
詳細は「リバダビア級戦艦」および「アルミランテ・ラトーレ級戦艦」を参照 アルゼンチンの弩級戦艦リバダビアとモレノ(英語版)はアメリカで建造され、アメリカが外国のために建造した弩級戦艦はこの2隻だけだった。画像は建造中のリバダビア。 アルゼンチンはブラジルの計画を警戒して、1902年の協定でチリと定めた制限を無効化した。1906年11月、アルゼンチン外相マヌエル・アウグスト・モンテス・デ・オカ(スペイン語版)はブラジルの新戦艦のどれをとってもアルゼンチン艦隊とチリ艦隊を全滅させることができると述べた。デ・オカはブラジル政府が注文を弩級戦艦に変更する前にこの発言をしたため、発言時点では誇張表現だったが、結果的には真実に近かった。少なくとも1910年時点ではブラジルの新戦艦がアルゼンチンやチリ艦隊はおろか、世界中の全ての艦船よりも強かった。アメリカ船舶工学者協会誌(英語版)は旧式のリベルタド(英語版)級やカピタン・プラト(英語版)級戦艦を維持することが金銭の浪費であるとまで述べた。 デ・オカの後任エスタニスラオ・セバリョス(英語版)も引き続き警戒した。1908年6月、セバリョスはアルゼンチン議会に戦艦購入の計画を提出した。当時、ブラジルの弩級戦艦のうち2隻が未完成であったが、そのうちの1隻の購入を打診するという計画だった。ブラジルが譲渡に応じた場合、両国の海軍力は釣り合うようになる。そして、ブラジルが拒否した場合、セバリョスは最後通牒をつきつけて、8日内に応じなかった場合、アルゼンチン軍を動員して、陸軍大臣と海軍大臣が無防備としているリオデジャネイロに攻撃すると計画した。しかし、セバリョスにとって不幸なことに、計画がマスコミに漏れてしまった。アルゼンチン国民は政府が軍を動員して戦争を起こすために大金を借りることをよしとせず、セバリョスは辞任を余儀なくされた。 アルゼンチン政府はブラジルの計画がアルゼンチンの輸出貿易に影響する可能性も憂慮した。これはブラジルがラプラタ川を封鎖してアルゼンチンの経済を麻痺させる可能性があるためだった。アルゼンチンのとある提督はBoston Evening Transcript紙に対し、弩級戦艦を得てブラジルと同程度に増強することで、「大衆感情の噴出や誇りの傷つきで(封鎖を)わが国対する危険な武器にする相手国(ブラジル)の優勢」を避けることができると述べた。 両国とも弩級戦艦の建艦に必要な資金の工面に苦労した。アルゼンチンの与党国家自治党(英語版)は購入を支持したが、このような高価な買い物は世論に反対された。その後、特にラ・プレンサなどの新聞で煽動的な社説が大量に出回り、さらにブラジルがアルゼンチンのリオ・デ・ラ・プラタ副王領再建陰謀を主張して国境紛争を起こしたなどの事件もあって世論が逆転して購入を支持するようになった。アルゼンチン大統領ホセ・フィゲロア・アルコルタ(英語版)は緊張を緩和するために、このまま軍拡を続けた場合は建艦競争が必至であるとブラジルに警告した。ブラジル政府は1906年のペナの演説とほぼ同じように、長らく整備されていないブラジル海軍の旧式艦を交換するために必要であると主張し、対アルゼンチンは想定していないと繰り返して述べた。 8月、アルゼンチン代議院(英語版)は72票対13票でアルゼンチン海軍に弩級戦艦3隻の購入を許可した。しかし、その3か月後、アルゼンチン上院(英語版)が調停条約を許可、政府が最後の試みとしてブラジルの建造中の弩級戦艦2隻のうち1隻を購入する提案を出したことで3隻購入案は上院で一旦否決された。ブラジル政府が提案を拒否したため、議案は再び提出され、1908年12月17日に49票対13票で上院を通過した。一方、社会主義者は反対に回り、アルゼンチンは人口増が必要であり、購入に費やす予算の1,400万ポンドにはより良い使い道があると主張した。 アルゼンチン政府が軍備会社に入札を求め、それを検討するために海軍の代表団を派遣すると、5か国(アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア)15社から入札を受けた。アルゼンチンの代表団はまず全ての入札を拒否して、各社の設計を取り入れて新しい入札要件を出して再び入札を求めるというプロセスを2回繰り返した。1度目の再入札の理由は世界初の超弩級戦艦オライオンが進水したことだったが、大型戦艦の設計は多くの時間と資金が必要だったため、造船会社たちはアルゼンチンが各社の企業秘密を暴露したとして激怒した。イギリスの造船家の1人がアルゼンチンの行動を痛烈に批判したが、これは落札会社がイギリス以外の会社であることが明らかになった後のことだった: イギリスの戦艦が良いアイディアと実践を具体化していることは仮定しては大丈夫でしょう。最良である可能性も高い。これらのアイディアが、イギリスの造船会社が最初にアルゼンチン政府に提出した設計の一部にならない可能性はなかった。2度目の請求では1度目の申し込みでよかったところが全てアルゼンチン当局に奪われ、新しい設計で求められることは想像できる。この2度目の請求はイギリスの造船会社だけでなく、世界中の造船会社に出されたため、私たちの船のアイディアと実践がアルゼンチン政府によって世界に漏らされた可能性が極めて高い。[...]3度目の請求では2度目の請求で消されたか変更されたものを世界の造船会社に示した。このようにして漏洩が進行し、外国の造船会社とアルゼンチン政府が教育されていった。 米国のフォアリバー造船所は安い鋼鉄が使えることもあって一番低い値段で入札して落札したが、採算が取れない低価格で入札してロスリーダーにしていると疑われた。アルゼンチンはほかの入札者の不満を和らげるために英仏独の造船所に駆逐艦12隻を注文したが、ヨーロッパの入札者はそれまでアメリカが競争者のうちに入らないと考えたため、疑心が消えることはなかった。これらの入札者はイギリスのタイムズ紙などとともに怒りをタフト大統領率いる米国政府にぶつけた。タフトのドル外交政策により米国国務省は手を尽くして契約を獲得した。彼らの反応が状況を正しく認識している可能性がある。実際、タフトは1910年の一般教書演説でアメリカの造船所が落札できた理由を「国務省の斡旋によるところが大きい」としている。 アルゼンチン政府との契約では、ブラジル政府が契約通りに3隻目の弩級戦艦を注文した場合、アルゼンチン政府に3隻目の弩級戦艦を取得する権利が定められている。ラ・プレンサとラ・アルヘンティーナの2紙は3隻目の取得を強く支持、ラ・アルヘンティーナは新しい戦艦のための募金を始めたほどであった。アメリカ駐アルゼンチン特命全権公使チャールズ・ヒッチコック・シェリル(英語版)は本国に電報を送り、「新聞の対抗により、市民寄付にしろ政府出資にしろ3隻目の戦艦に向けた運動は早期終結をみた」と述べた。1910年12月31日、建艦競争を終わらせるようブラジルに懇願していたロケ・サエンス・ペニャ(英語版)がアルゼンチン大統領に当選すると、アルゼンチン政府は建艦を否決した。さらに、アルゼンチンの3隻目の弩級戦艦の仮想敵となっているブラジルの3隻目の弩級戦艦はすでに数回キャンセルされていた。 1906年バルパライソ地震と1907年の硝酸塩価格暴落により経済衰退に陥ったチリでは建艦計画に遅延が生じたが、宿敵のアルゼンチンが弩級戦艦を購入したためチリの建艦計画は完全には停止しなかった。アルゼンチンは主にブラジルに注目していたが、チリはアルゼンチンのほかペルーの軍拡にも注目した。 チリでは1910年に海軍建艦計画に予算がついた。チリ政府は数社からの入札を受けたが、予想ではイギリスの会社が落札する可能性が極めて高いとしていた。アメリカの駐在武官は革命でもおきない限り契約はイギリスの手中にあるだろうとの意見を述べた。チリ海軍は1830年代よりイギリス海軍と緊密な関係を保ち、チリの海軍士官はイギリス船に乗船して訓練を受けつつ経験を積んだ後に本国に貢献することができた。この関係は1911年にチリがイギリス海軍の派遣団を求め、イギリスもそれに応じたことで継続した。それでも、米独政府はそれぞれ戦艦デラウェアと巡洋戦艦フォン・デア・タンをチリに派遣してチリ政府を動かそうとしたが、この努力は失敗に終わり、イギリスのアームストロング社は1911年7月25日に落札した。
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