アルゼンチンにおけるカイザー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 14:10 UTC 版)
「カイザー=フレーザー」の記事における「アルゼンチンにおけるカイザー」の解説
詳細は「インドゥストリアス・カイゼル・アルヘンティーナ」を参照 1951年、アルゼンチンは米国にサン・マルティン(San Martín)准将を向かわせ、アルゼンチンでの自動車生産を打診した。1954年、カイザーは唯一これを受諾した。他社はいずれも投資に対して市場が小さすぎるとして請け負わなかった。1955年1月19日、カイザーとアルゼンチン政府はアルゼンチンでのカイザーの乗用車およびトラック生産に関して合意した。2月にはKaiser Automotoresという名称の持ち株会社をカイザー・インダストリーズの100%子会社として設立。傘下に実際に製造販売をおこなうインドゥストリアス・カイゼル・アルヘンティーナを置き、その一部の株をKaiser Automotoresが、その他をアルゼンチン政府の自動車会社IAMEやその他の投資家が保有した。8月、カイザーは完成車1021台、生産設備、スペアパーツ類の米国からの輸入が認められた。1955年3月に新工場が操業開始し、1956年4月27日にはアルゼンチン製ジープがラインオフした。 アルゼンチン工場はコルドバ州サンタ・イザベル (Santa Isabel) 市に建造され、カイザー・マンハッタンがカイザー・カラベラ (Kaiser Caravela) と名前を変えて製造された。カラベラとはスペイン帆船の型であるキャラベル船のことである。米国での合成皮革とファブリックでのインテリアは、より頑丈な革張りに変更されている。スピードメーターは km / h 表示に変更され、水温計、油温計、燃料計の表示もスペイン語とされ、サスペンションは整地されていないアルゼンチンの道路に合わせて強化されていた。一方ダッシュボード上のベンチレーター、ヒーター、ヘッドライト、ワイパースイッチは英語のままだった。サービス業務の提供の難しさからオートマチックトランスミッションは装備されていない。 生産は1958年7月25日から開始され、その年中に2,158台を生産した。IKAではコルドバ工場でジープも生産され、1958年だけで20,454台が組み立てされている。カラベラとジープの生産総数は22,612となり、1958年にアルゼンチンで生産された自動車の81%を占めていた。競合は国が経営する自動車会社が生産するユーティリティ(いわゆるジープタイプ)仕様の車のみであった。多くの人がIKAのSanta Isabelという、港や輸送拠点から遠く離れた場所での自動車生産を疑問に思ったが、この地となった主たる理由は、サン・マルティン将軍 (General San Martín) の故郷であるということだった。彼は時の大統領フアン・ペロンに親しく、また影響力を持っていたのである。 1962年に、"Gran coche argentino"(偉大なアルゼンチン車)と呼ばれたカラベラは1万5000台をもって生産終了となった。カラベラは医者、銀行家などのアルゼンチンの名士たちに、上品な移動手段として愛用された。カラベラには1960年から1962年にかけて競合車種が現れている。まず、アルファ・ロメオ1900セダンがあり、これは2500ccの6気筒(オリジナルは4気筒)エンジンを搭載し、ベルガンティン(Bergantin)と名づけられた。この名もスペイン帆船の型のひとつである。またアルゼンチン製のルノー・ドーフィンもあり、これはIKAドーフィンという名前だった。1962年にはAMCからランブラーがライセンス生産され、それまでのすべてを置き換えることになった。最後のAMCモデルは国際レースで活躍していたトリノだった。 1968年、カイザーはIKAをルノーに事実上売却、社名はIKAルノー(現ルノー・アルヘンティーナ)となった。
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