アルゼンチンとチリの建艦競争
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「南アメリカの建艦競争」の記事における「アルゼンチンとチリの建艦競争」の解説
詳細は「アルゼンチンとチリの建艦競争(英語版)」を参照 アルゼンチンとチリの主要な軍艦購入と注文(1887年 - 1902年)年 船(種類) 年 船(種類) 1887年 カピタン・プラト(英語版)(BB)プレシデンテ・エラスリス(Presidente Errázuriz,PC)プレシデンテ・ピント(英語版)(PC) 1896年 オイギンス(英語版)(AC) 1888年 リベルタド(英語版)(BB)インデペンデンシア(BB) 1896年 サン・マルティン(英語版)(AC) 1890年 ベインティシンコ・デ・マヨ(Veinticinco de Mayo,PC) 1897年 プエイレドン(英語版)(AC) 1891年 ヌエベ・デ・フリオ(英語版)(PC) 1898年 ヘネラル・ベルグラーノ(英語版)(AC) 1892年 ブランコ・エンカラダ(英語版)(PC) 1901年 リバダビア(AC)マリアーノ・モレノ(AC) 1894年 ブエノス・アイレス(PC) 1901年 コンスティトゥシオン(BB)リベルタード(BB) 1895年 エスメラルダ(英語版)(AC)ミニストロ・センテノ(英語版)(PC) 1901年 戦艦2隻(注文したとされた) 1895年 ガリバルディ(英語版)(AC) 1901年 チャカブコ(PC) 記号解: チリ アルゼンチンBB: 前弩級戦艦 – PC: 防護巡洋艦 – AC: 装甲巡洋艦 日付は注文日を示す。 出典: Scheina, Naval History, pp. 46–51, 297–299. アルゼンチンとチリの2国が南米の最南部地域であるパタゴニアの領有権を主張したため、2国は1840年代より緊張状態にあった。1872年と1878年にはアルゼンチン政府より紛争地域で操業する免許を得た商船がチリの軍艦に拿捕されたことで緊張が高まり、1877年にはアルゼンチン軍艦がチリの免許を得たアメリカ商船を拿捕した。さらに1878年11月にアルゼンチンがサンタ・クルス川(英語版)に小艦隊を派遣して、チリも同様に艦隊を派遣したことで両国は開戦寸前になったが、それに慌てた両国は条約を締結して戦争を回避した。その後の数年はアルゼンチンが先住民族に対する軍事作戦(英語版)(1870年 - 1884年)で、チリが対ボリビアとペルーの太平洋戦争(1879年 - 1883年)で手いっぱいだったが、両国とも軍艦を数隻注文した。チリは防護巡洋艦のエスメラルダを、アルゼンチンは装甲艦のアルミランテ・ブラウンと防護巡洋艦のパタゴニア(英語版)を注文した。 1887年、チリ政府は海軍の予算を3,129,500ポンド増やした。当時のチリ艦隊は1870年代からの装甲艦アルミランテ・コクラン(英語版)とブランコ・エンカラダ(英語版)が主力であったが、チリは戦艦カピタン・プラト(英語版)、防護巡洋艦2隻、水雷艇2隻を注文、6隻とも1890年に起工した。アルゼンチン政府は即座に戦艦のリベルタド(英語版)とインデペンデンシアを注文、両国間の建艦競争の幕開けとなった。建艦競争はチリが1891年の内戦(英語版)という支出の高い戦争を経たにもかかわらず、1890年代を通して行われた。両国は1890年から1895年までかわりばんこで巡洋艦を注文、それぞれ前回の巡洋艦より性能を少し上げた巡洋艦を注文した。1895年7月にアルゼンチンがイタリアから装甲巡洋艦ガリバルディ(英語版)を購入したことで競争が更に激しくなり、チリも負けじと装甲巡洋艦オイギンス(英語版)を注文した。その結果、アルゼンチンは更にイタリアのアンサルド社から装甲巡洋艦を1隻注文、後に2隻を追加注文した。 1899年に米国駐アルゼンチン特命全権公使ウィリアム・ペイン・ロード(英語版)がプナ・デ・アタカマ紛争(英語版)の解決を仲介したため競争が一旦減速したが、両国とも1901年に軍艦を注文した。アルゼンチン海軍はイタリアから装甲巡洋艦2隻を購入、チリ海軍はイギリスにコンスティトゥシオン級前弩級戦艦2隻を注文した。アルゼンチンはさらに1901年5月にアンサルドと内示書を調印してより大型な軍艦2隻を購入した。 イギリス政府はこのように紛争が拡大することに喜ばなかった。というのも、すぐにでも戦争が勃発しそうな勢いであり、武装紛争は当地におけるイギリスの商業利益に悪影響を及ぼすからである。アルゼンチンもチリもイギリス製品を輸入しており、イギリスは主にラプラタ川を通って輸送されるアルゼンチンの穀物とチリの硝酸塩を輸入していた。そのため、イギリス政府は駐チリ大使を通じて交渉を仲介、1902年5月28日の五月協定(英語版)につながった。五月協定は3つの協定で構成され、うち3つ目の協定は両国の海軍武装を制限、向こう5年内に軍艦を取得する場合は18か月前の事前告知義務を課した。建造中の軍艦は売却され、うちチリの戦艦はイギリスのスウィフトシュア級戦艦になり、アルゼンチンの装甲巡洋艦は日本の春日型装甲巡洋艦になった。計画中のアルゼンチン戦艦2隻の注文がすでになされたかは明らかではなかったが、いずれにしても計画はすぐに放棄された。カピタン・プラト、ガリバルディ、プエイレドンの3隻は武装解除されたが、主砲台を外せるクレーンがなかったため主砲台は残された。
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