アルゼンチンとの戦争と皇后の崩御
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 20:29 UTC 版)
「ペドロ1世 (ブラジル皇帝)」の記事における「アルゼンチンとの戦争と皇后の崩御」の解説
リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合 (現在のアルゼンチン)の後押しを受け、1825年に小規模な集団がブラジルの最南端のシスプラチナ州の独立を宣言した。ブラジル政府は離脱の企てを当初小規模な反乱と考えていた。諸州連合がシスプラチナ州の併合を意図して介入しているというより大きな脅威が到来し、深刻な懸念を起こすまでには数か月間を要した。ブラジル帝国は報復として宣戦し、シスプラティーナ戦争を引き起こした。1826年2月に皇帝は皇后とマリア皇女とともに北西部のバイーア州を旅行し、皇帝はバイーア州の住民に温かく迎えられた。旅行は戦費を募る支援を醸成するために計画された。 皇帝の側近にはドミティリア・デ・カストロ (サントス子爵夫人、のちサントス侯爵夫人)が含まれており、1822年に初めて出会ってから彼女は皇帝の公妾であった。ペドロはマリア・レオポルディナにとってけっして貞節な夫ではなかったが、以前は他の女性との性的な関係を注意深く隠していた。しかし、彼の新しい愛人への寵愛は「露骨にして際限のないものになり」、それにさいし皇后は恥辱に耐え、ゴシップの対象となった。ペドロはいっそう皇后に対して無礼で意地悪くふるまうようになり、皇后には十分な資金を与えず、さらに宮殿から離れるのを禁じ、ドミティリアの存在を皇后付の女官として認めるように強要しさえした。特別待遇を求め、私腹を肥やす計画を進める者たちは、普通の合法な手段を避け、彼女の助力を仰ぐようになった。 1826年11月24日、ペドロはリオデジャネイロからサンタカタリーナ州サンジョゼへと渡航した。そこから、彼はリオグランデ・ド・スル州の州都ポルトアレグレへと騎馬で訪れた。そこには陸軍の主力部隊が駐屯していた。12月7日の訪問で、皇帝は軍の状況が彼の予想以上に悪化していることを知った。彼は「彼のいつもの活力で反応した。すなわち、彼は急な命令をいくつも下し、不正を働く者、そして不適格者という評判のある者たちを罷免し、兵士と親交を深め、軍と文民の政府にショックを与えた」。皇后が流産の後に死去したことを彼が知らされたのはリオデジャネイロへ戻る途上であった。 戦争は出口が見えないまま続いた。1828年6月、アイルランド人・ドイツ人傭兵の反乱がリオデジャネイロで起きた。ブラジルでの過酷な軍隊生活に不満を抱いた外国人傭兵たちは、諸州連合から、反乱を起こすだけでなく、交渉の切り札としての人質にするために皇帝を捕えるよう賄賂をもらっていた。傭兵たちの反乱は多大な犠牲を出して鎮圧された。ペドロは8月にシスプラチナ州を放棄し、この州はのちにウルグアイとして独立した。
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