アルゼンチンからの警告と情勢判断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:51 UTC 版)
「フォークランド紛争」の記事における「アルゼンチンからの警告と情勢判断」の解説
アルゼンチン側はイギリスによるフォークランド占有から150年の節目に当たる1983年までには、諸島問題を「いかなる手段」を使っても解決することを目標としていた。また、1981年12月8日に新大統領に選出された陸軍総司令官のレオポルド・ガルチェリ中将は翌年には陸軍総司令官を退任することになっていたため、退役までに政治的な功績を残す必要に迫られていた。 1981年当時のイギリスでは国防政策見直しの作業が進められており (1981 Defence White Paper) 、トライデントSLBMの予算を捻出するため、氷海警備船「エンデュアランス」や空母「インヴィンシブル」の退役が検討されていたが、アルゼンチン政府は、これらの検討内容について、イギリスはフォークランド諸島の安全保障問題よりも国内の財政問題を優先したものと解釈していた。12月15日、海軍総司令官ホルヘ・アナヤ大将 (Jorge Anaya) は、海軍作戦部長フアン・ロンバルド中将 (Juan Lombardo) に対し、フォークランド諸島侵攻作戦計画の作成を下令し、本格的な武力行使の計画が開始された。 1982年1月27日にアルゼンチン外務省はイギリスに対して主権問題解決のための定期的な交渉の開始を提案し、2月27日にはニューヨークで会談が持たれた。アルゼンチン外務省としてはイギリスを交渉の場に繋ぎ止め、武力紛争の勃発だけは避けようとしていたが、イギリス側はアルゼンチンがそこまで強硬な姿勢を固めつつあることを想定しておらず、まずは島民の意思を変える時間を稼ぐための引き伸ばしを図っており、積極的に話し合いを進める意図はなかった。アルゼンチン外務省は落胆し、3月1日に「イギリス側に解決の意思がない場合、交渉を諦め自国の利益のため今後あらゆる手段を取る」との公式声明を発表した。 これはアルゼンチン側からの明確な警告であったが、依然としてイギリス側の反応は鈍く、3月9日に開催されたJICでは、外交交渉が続いている限り、アルゼンチンが極端な行動には出ることはない、という結論であり、もしアルゼンチン側が武力に訴えるとしても、同年10月以降になるであろう、という推測であった。同日、サッチャー首相は国防省に対して非常時の対策を練っておくよう指示していたが、その後2週間は具体的な検討は行われなかった。ブエノスアイレス駐在のウィリアムス英大使は「もしイギリスがアルゼンチン側の要求を受け入れなければ、3月中の武力行使もありうる」との情報を入手して本国に伝達したが、狼少年と見なされてしまい、重視されなかった。
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