のりなおし
★1.悪事・凶兆と思われることがらを、善事・吉兆のように解釈しなおす。
『阿Q正伝』(魯迅) 日雇い農民の阿Qは、自尊心が強かった。喧嘩に負けて殴られた時には、「息子にやられたようなものだ。今の世の中は逆さまだ」と考えて満足した。これが彼の精神的勝利法だった。
『義経記』巻7「如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事」 北陸路を行く義経一行が、岩戸の崎(新潟県直江津市)で若布(わかめ)採りのありさまを見る。義経の北の方が、「四方(よも)の海浪のよるよる(「寄る」と「夜」の掛詞)来つれども今ぞ初めてうきめ(「浮き女(海女)」と「憂き目」の掛詞)をば見る」と詠ずる。弁慶はこれを不吉と思い、すぐに「わだつみの浪のよるよる来つれども今ぞ初めてよきめ(「良き布(良いわかめ)」と「良き目」の掛詞)をば見る」と詠み直した。
『古事記』上巻 高天原にのぼったスサノヲが、姉アマテラスの田の畦を壊し溝を埋め、新嘗祭の新穀を食する神殿に糞をまり散らす。しかしアマテラスはスサノヲの悪行を咎めることなく、「糞ではなく酔って吐いたのだ。田を広くするために畦や溝を無くしたのだ」と、スサノヲに悪意がなかったかのように説明する。
『三国史記』「百済本紀第6」第31代義慈王20年6月 百済の義慈王の世、地中から掘り出された亀の背に「百済は月輪(満月)に同じく新羅は月新(新月)の如し」の文字があった。巫が「満月は満ちれば欠ける」と解き、王は巫を殺す。別の人が「百済は満月のごとく盛んになる」と言い、王は喜ぶ。しかし百済は亡んだ。
『曽我物語』巻7「鞠子川の事」 富士野の狩場へ向かう曽我兄弟が鞠子川を渡る。十郎祐成が「五月雨に浅瀬も知らぬ鞠子川波にあらそふ我が涙かな」と詠んだのを聞いた五郎時致は、歌の体悪しと思ったのだろうか「渡るより深くぞ頼む鞠子川親のかたきに逢瀬と思へば」と詠ずる。
『耳袋』巻之10「清水谷実業卿狂歌奇瑞の事」 ある公卿が禁中宿直の朝、衣服を左前に着て気に病んでいたので、清水谷実業卿が「左前みぎりはあとに左右左の拝舞の稽古やがて昇進」と狂歌を詠んで与えた。翌年、その公卿は果して昇進した。
*「土でも食え」と侮辱されたのを、「封土領有の吉兆」と解釈する→〔土地〕2aの『史記』「晋世家」第9。
*変事を「皇子誕生の兆し」と解釈し、実際に皇子が誕生する→〔犬〕9の『江談抄』第2-9。
*逆に、皇子誕生を願ってつけられた名前を悪い意味に解釈し、実際に凶事が起こる→〔出産〕7の『続古事談』巻1-35。
★2a.凶夢と思われるものを吉夢と解釈して、良い運命をもたらす。
『大鏡』「兼家伝」 堀河の摂政兼通が全盛で、その弟・東三条兼家が逆境にあった頃のこと。「兼通邸から射られた多くの矢が皆、兼家邸へ落ちる」との夢を、ある人が見た。兼家はそれを聞き、心配して夢解きに問う。夢解きは、「たいへん良い夢です。世の権勢が、兄・兼通公から弟・兼家公へ移る兆しです」と述べた。やがて兼家は、摂政・太政大臣にまでなった。
『江談抄』第1-31 兼家が大納言時代に、「逢坂関に雪が降り、道が真っ白になる」との夢を見る。雪は凶夢と思い夢解きに語ると、夢解きは「斑牛(まだらうし)が献上されよう」と解き、まもなくそれが実現する。その後、大江匡衡が「逢坂の関に雪の白は、関白を意味する」と解きなおす。翌年、兼家は関白の宣旨をたまわる。
『古事談』巻2-49 業房の亀王が、御前を退けられ門外へ追い出された夢を見る。康頼が「靱負の尉に任ぜられるべき吉夢だ。靱負の陣は門外にあるから」と解く。まもなく業房は左衛門の尉(靱負の尉)となった。
『春秋左氏伝』僖公28年 楚軍との戦いに臨んだ時、夜の夢に重耳は、「楚の成王と組み打ちし、成王が自分の上にのしかかり脳みそを吸う」と見た。気に病んでいると、子犯が「殿は上を向き天を得、楚は下を向き罪に伏した形で吉兆。また、脳を吸い楚は柔弱になった」と言う。
『雑宝蔵経』「迦旃延が悪生王の八つの夢を解く縁(はなし)」 悪生王が、「頭上に火が燃える」「2蛇が腰に巻きつく」などの8つの夢を見て、不吉に思い憂える。波羅門たちが、「王の愛する人や動物を殺して厄払いをせよ」と勧める。王夫人の訴えにより、迦旃延(かせんねん)尊者が「第1の夢は、冠を献上されること」「第2の夢は、剣2ふりを献上されること」など、「すべて吉夢である」と解きなおす。
『袂の白しぼり』(紀海音) お染・久松はともに、夢の中で、2人の恋が情死に終わるとの不吉な歌祭文を聞く。お染の母が「夢は逆夢。どんな悲しい夢でも判じなおしてめでたく解いてやろう」と励ます。
『蒙求』213 王濬は、ある夜の夢に、寝室の梁上に懸かる3ふりの刀が1ふり増したのを見る。不吉に思っていると、主簿の李毅が「3ふりの刀は州の字に通じ、1ふり増したのは益州の長官になるとの吉夢」と解く。後、王濬は2度、益州の刺史となる。
『洛陽伽藍記』巻2「景寧寺」 広陽王元淵が、槐(えんじゅ)の木に倚りかかって立つ夢を見た。元慎が「三公を得る瑞兆です」と解くと、王は喜んだ。元淵は退出して、人に「王は死ぬ。『槐』は木へんに鬼、死後に三公となるのだ」と語る。果たして広陽王は殺され、司徒公を追贈された。
『今鏡』「村上の源氏」第7「夢の通ひ路」 春宮大夫師頼は、なるべきはずの大臣になれなかった。若い頃「採桑老(サイソウロウ)」という舞いをする、との夢を見たが、ある人が「長く宰相であろう(サイショウノママ老イル)」と悪く合わせたためである。実際、師頼は長期間宰相の職にあり、大納言どまりであった。
『大鏡』「師輔伝」 九条殿師輔公は若い頃、「朱雀門の前で、左右の足を西と東の大宮大路に踏んばり、北向きになって内裏を抱いて立つ」との夢を見た。彼がその夢をまわりの人たちに語ると、小ざかしい女房が、「どれほど御股が痛かったことでしょうね」と言った。そのため、せっかくの夢がはずれてしまい、師輔は摂政・関白になれずに終わった。
『江談抄』第3-7 伴大納言はもと佐渡の百姓だった。「西の大寺と東の大寺とを跨いで立った」と夢に見たが、妻が「貴方の股が裂かれるでしょう」と合わせる。そのため、彼は大納言になったものの伊豆国に配流された〔*『古事談』巻2-50・『宇治拾遺物語』巻1-4に類話〕。
『紅楼夢』第30~32回 王夫人から厳しく叱られ暇を出された侍女の金釧児(きんせんじ)が、井戸に身を投げて死んだ。王夫人は、「2~3日たったら、呼び戻すつもりだったのに」と嘆く。そこへ薛宝釵が来て、「わたくし思いますには、あの人は身投げをしたのではなく、たぶん井戸のそばで遊んでいて、足をすべらせ落ち込んだのでしょう」と言い、事故死だったことにしてしまった。
『山犬の話』(松谷みよ子『日本の伝説』) 夜道を歩いていると、「送り犬」といって、山犬たちが後になり先になりして、ついて来ることがある。転んだら山犬はとびかかってくるから、もしも転んでしまったら、その時には「おおやれ、休んどう」と言って、一休みしているように見せかけねばならない(山梨県)。
- のりなおしのページへのリンク