この世での“紅世の徒”
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 09:25 UTC 版)
生まれ故郷の過酷な環境を嫌った一部の“徒”は、「より自由」で気侭な生活を望んでこの世へ渡り来たり、欲望のまま放蕩の限りを尽くすために行動する。具体的な欲望は個々の“徒”によって異なり、この世の物品を集める者、人間との交流を望む者、人間が生み出した文化などに魅せられた者、戦いにしか興味のない者など、非常に多彩である。 また、単なる好奇心からこの世へ渡り来る“徒”も多く、この世で行動するうちに自身の在りようや欲望に適った目的を見出す場合もある。 顕現 本来この世の存在でない“紅世の徒”は、“存在の力”を消費することで自分自身の“存在の力”(『本質』とも呼ぶ)を変換しこの世に“実体化”する。“徒”自身がこの世に実体として現れることや、己の意思や存在を自在法としてこの世に現す事を「顕現」と呼ぶ。 この世に顕現し実体となった“徒”は通常、その“徒”の本質を「形ある何か」で表した姿となる。具体的には、この世に存在する人間や獣に似た姿、植物や道具、この世の生き物にはありえない怪物、それらの形状が混在した姿など、個々の“徒”により千差万別である。これらの姿はあくまでも「この世」での姿であり、“紅世”での姿とは異なる(そもそも五感が意味を成さない世界なので、『姿』の概念が通用するかは不明)。また近代以降は、人間社会への憧れから「本質に見合った人間の姿」に変換する「人化の自在法」を常用する“徒”も増えている。 “徒”にとってのこの世の“存在の力” この世での“徒”の行動は全て“存在の力”の消費の上で行われる。“徒”は通常、この世に存在するだけでも常に“存在の力”を消費する。また消費する“存在の力”の量は、その実現が困難であるほど多くなる。 この世で欲望のままに行動する“徒”は、この世で存在を維持するために人間の“存在の力”を喰らい、これを自分の力に変えて「顕現」する。“徒”にとって、この世の“存在の力”を喰らい自分の力に変える事は、呼吸に等しいほど容易な行動である。 この世の“存在の力”を使わず“徒”自身の“存在の力”(すなわち自身の『本質』)を消費して「顕現」することも可能だが、それは自分の身を削る行為であり、自身の“存在の力”が尽きればその“徒”は死滅する。また、何らかの理由で負傷すると、“徒”自身の“存在の力”が火の粉と化し傷口から失われる。負傷からの回復には“存在の力”を摂取する必要があり、負傷の程度が大きいほど回復に必要な“存在の力”の量も多くなり、負傷の程度によっては死亡することもあり得る。 “徒”が喰らう“存在の力”が人間のものに限定されるのは、人間がこの世で最も“徒”に近い存在だからである。人間以外の動物や物質も“存在の力”を持つが、これらは“徒”には合わず、喰らえば逆に力が薄められてしまう。なお、これらとは別に純粋な“存在の力”も存在するが、『都喰らい』と呼ばれる秘法を使った後にしか作中では言われていない(詳細は不明だが、「純度」という表現が使われていることから、“徒”が喰らう“存在の力”は通常、何らかの「不純物」を含んでいるとも推測できる)。 また、“徒”には“存在の力”を自分の力に変換し統御できる限界があり、それを超えた量の“存在の力”を“徒”が取り込むと、自分の意思総体が逆に飲み込まれ薄められ消えてしまう。 真名と通称 “徒”には“紅世”での本名にあたる真名と、この世で付ける呼び名である通称がある。真名は姓(名字)、通称は下の名前のようなニュアンスで用いられており、名乗る場合は真名の後ろに通称を付けて名乗る。“徒”同士の場合は基本的に、親しくない間柄では真名のみ、もしくは真名と通称を繋げて呼び合い、親しい場合は通称だけで呼び合う。 真名は、“徒”の本名であると同時にその“徒”の本質を表しており、この世においてはこの世の言語に訳して用いられる。各国語には自在法『達意の言』によってその本質を伝えていると思われる。 “徒”は自分で自分の通称を定めるため、その由来も個々の“徒”により様々である。気分で改名することや、異なる文化圏ごとに複数の通称を持つ者もいる。なお、あだ名や愛称とは別物である(芸名やペンネーム、ハンドルネームのような概念に近い)。 古代、人知を超えた力を持つ“徒”を見た人間が彼らを崇め畏れて異名を付け、“徒”もそれを自らの力の証・誇りとして名乗ったことが通称の始まりである。そのため、神話・伝説・伝承に登場する神や悪魔などの中には、その正体が“徒”である場合もある(ただし全ての神や悪魔が“徒”というわけではない)。後世になると、他者から神や悪魔の名(元は“徒”の通称であったものも含む)を当てはめられた者のほかにも、自ら通称を名乗る者も現れるようになった。参考程度の傾向としては、古株の“徒”は神の名を名乗る者が、時を経るごとにそれ以外の名を名乗る者が多い。 なお、討ち手と契約する“王”は真名が全て「○○の○○」で統一されているが、これは彼らが人間の側に立っていることの暗喩。 “徒”の死後 本来この世の存在でないためか、死亡すると“存在の力”を感じ取れない人間には忘れ去られ、写真や書いた文字なども消えてしまう。ただし、暗号や秘文字を使った文章は稀に“徒”の死後も残る事があり、人間から人間へ移動した“徒”の情報も何らかの形で残る事がある。 死んだ“徒”の情報や遺物がどの程度残るかは、その情報が“徒”にどれだけ深く関連しているかによって異なる。“徒”への関連が深い情報や遺物ほど消失しやすく、不正確で難解な情報は比較的残りやすい。 “徒”たちは相当な分量でこの世の伝承に入り込んでいるが、それらはほとんどが『この世の本当のこと』を知らない人間の残した不正確な誤伝ゆえに、関連性があまりにも離れているため、“徒”の死後にもこの世から消えずに残っている。ただし正確かつ大真面目に記されていたならば、“徒”が死んだ場合、その“徒”が記された神話体系の存在はこの世から消える。 この世での“徒”の歴史 この世と“紅世”の行き来がなかった古代、“徒”らはこの世の人間の感情と共感し、「歩いて行けない隣」にあるこの世の存在を知る。そして間もなく“徒”の一人、ある“紅世の王”が狭間渡りの術を編み出し、“徒”らは“紅世”とこの世を往来するようになった。 この世との往来が始まった当初、“徒”らはこの世を自分の意のままに出来る楽園と考え、容赦なく人間を喰らい、この世の事象を弄り、欲望のままに行動していた。しかし、これらの放埓によりこの世に「世界の歪み」が生じ、この世と“紅世”の境界が歪み荒れ始め、そこを通る“徒”達が傷ついたり消滅や行方不明になる事態が発生し始める。 この「歪み」の発生により一部の“徒”らは、いつか両世界に致命的な大災厄が発生することを危惧、予測し恐れ始めるようになる。彼らの中から、同胞を殺してでもこの世の“存在の力”の乱獲を阻止しようと考える者が現れ始め、「同胞殺しの道具」とも呼ばれる元人間の討滅者フレイムヘイズを生み出し、戦うようになった。 一方、欲望のために行動する“徒”らにとって、欲望を邪魔するフレイムヘイズは面倒で厄介な存在であった。そこで、フレイムヘイズを引き寄せる「歪み」を一時的に緩和させる道具「トーチ」を作り出した。こうして欲望のままに生きる“徒”と、そうした“徒”を滅ぼす討滅者フレイムヘイズは、果てることの無い戦いを現代に至るまで延々と続ける事になった。 “徒”と人間との関わり 古代、この世に渡り来た当初の“徒”は、人間と近しく接していた。“徒”は己の本性のままに自分の姿を現し、人間からは神や天使や悪魔、妖精や妖怪、時には仙人や奇人変人として認識されつつ、人間社会と関わっていた。 しかしフレイムヘイズの忌避、産業革命によって発達した人間文明への憧れ、隠蔽の自在法「封絶」の発明などから、多くの“徒”が活動を水面下へ移していった。 現代の“徒” しかし現代では、高度な文明を持つようになった人間という種族に対する憧れや、絵描きやギャンブル、煙草や高級な食品など、人間社会の中に己の欲望の目当てを見つけ、「人化の自在法」を用いて人間社会に溶け込む“徒”も多く、この世にとって異形である「本性の姿」を陳腐とする風潮も生まれている。なお、“徒”は最初に踏んだ国を贔屓する傾向にあり、人化の際もその影響でその国の人種の姿をとる。 特に決定的な変化をもたらしたのが、19世紀後半に二人の天才により生み出された自在法『封絶』であり、“紅世”に無関係な存在(通常のトーチを含む)を停止させ、“徒”達の行動を隠蔽するこの自在法が多用されるようになった現代では“徒”と人間の関わりは非常に薄くなった。復讐心が生まれる機会も減少した為、フレイムヘイズの発生も減少傾向にあった。
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