この世と教会(二王国論の否定)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 14:18 UTC 版)
「ディートリヒ・ボンヘッファー」の記事における「この世と教会(二王国論の否定)」の解説
ボンヘッファーのイエス・キリストへの集中は1940年に執筆した『倫理』においても明確である。そこでは「二王国論」という数百年の間支配的だった思考モデルを拒絶している。教会とこの世、福音と律法という思考を彼は明確に否定している。 „ただキリストを主と見なす信仰を我々が強めれば強めるほど、神の国の広がりはますます明らかになる。「...」この世はキリストに属し、この世というものはキリストにおいてのみ存在する。それゆえ、この世界においてキリストだけが求められている。この世には何か、もしかするとキリスト教的律法に与えられていたのに、その全てが破壊されたなら、教会のためにキリストを心にしまっておこうとするだろう。「...」神がキリストの肉体を得た時以来、神がこの世に来たのであり、二つの空間、二つの現実を語ることを我々に禁じた。この現実こそがこの世である“ しかしながら、ボンヘッファーはマルティン・ルターとの一致を強調した。キリスト者において服従義務が課せられている限り、上に立つ権威が神の掟からの離反を強いてしまう。ルターは使徒行伝5章29節を言及して、地上の権威への服従義務に限界があることを指摘した。ボンヘッファーはこの世と教会共同体の間に明確な区別を把握し、再三再四、この世への宣教がキリストから教会共同体に委託されたものであると強調していた。それも、教会共同体だけでなく、この世のために死んだキリストからの委託である。この世は教会共同体との生死を賭けての戦いの中にある。教会共同体への宣教委託と存立の本質はこの世における戦いである。しかしながら、すでに、この世に向けて神との和解が語られ、神の愛という現実が成就していることを理解せずに、この世は神の愛に刃向かったのである。これをボンヘッファーは『倫理』において言及したが、『服従』(『主に従う』、『キリストに従う』という邦題で出版)においてもより詳しく展開している。「神が見出したのは小さな教会共同体であったが、偉大な教会共同体であった。なぜなら、そこで民を見出したからである。若者たちと民は深く結びついており、若者たちは神の使者になり、聴衆と信仰者たちを見出す。しかし、彼らの間で終末まで敵意があり続けるだろう」。 1人のキリスト者は同時に神とこの世の現実の中で生きることになる。この世は仮の居場所に過ぎないという現実から、今の世界は目を背けている。究極以前のものは究極に覆いがされたものである。究極のものは歴史において現れ、神の国という可能性を明確に示している。そこにおいて、信仰のある人間はこの世を介して神に至るのであり、この世を通り過ぎるのではない。さらに、ここでボンヘッファーは古い神学的モデルとの関係を断っている。それまで重視されていた創造された自然の価値とこの世の自立性を彼は低く評価した。それゆえ、キリスト教信仰をまやかしと見なして、彼岸なる言葉で慰めを語っているに過ぎないと批判したルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ、カール・マルクス、ジークムント・フロイトをボンヘッファーは対置させている。 ボンヘッファーは敬虔と倫理的行為を個人に属するものとして配慮しているが、この世に組み込まれた個々人の存在という背景を前にして、彼は敬虔と倫理的行為をキリスト教的共同体に組み入れるのである。彼にとって神学は祈りながらの思索であり、教会内で両膝をついて祈りながら思索することでもある。目の前に見える教会に彼は悩み、苦しむが、その教会と彼は連帯している。ヘーゲルの言葉「神は教会共同体として存在している」に依拠して、「キリストは教会共同体として存在している」とボンヘッファーは語った。神は啓示において自らを現すのであり、神は人間にとって無縁の存在ではないが、人間に対して自由な存在である。それにもかかわらず、教会はこの世の一部として啓示の形態でもある(学位請求論文『聖徒の交わり』)。彼は教授資格論文『行為と存在』を1931年に出版した。 „神はここにおられる、すなわち、永遠に非即物的存在ではなく、仮の存在として現れている。言葉において具体的であり、教会において理解できる存在である“ 「キリストのように、人間は他者のために存在している」と記述した後で「教会が他者のためにここに存在している場合ならば、教会は教会に他ならない存在である」と書き加えている。1944年、ボンヘッファーは自身の属していた教会に批難を浴びせている。教会が自己存続のためだけに活動したと見なしたからである[…] 。
※この「この世と教会(二王国論の否定)」の解説は、「ディートリヒ・ボンヘッファー」の解説の一部です。
「この世と教会(二王国論の否定)」を含む「ディートリヒ・ボンヘッファー」の記事については、「ディートリヒ・ボンヘッファー」の概要を参照ください。
- この世と教会のページへのリンク