「三波春夫」歌謡界デビュー・歌藝の道とは? わかりやすく解説

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「三波春夫」歌謡界デビュー・歌藝(うたげい)の道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 19:26 UTC 版)

三波春夫」の記事における「「三波春夫歌謡界デビュー・歌藝(うたげい)の道」の解説

1957年昭和32年6月芸名を「三波春夫」と改め歌謡界デビューデビュー盤は「メノコ船頭さん(C-4084)」で、B面及川ウメ子(後に及川三千代改名)の「サテなんとしよう」だった。第2弾が「チャンチキおけさ船方さんよ」のカップリングであった(C-4091)。その後デビュー初年度にして半年間でシングル710曲を発表いずれも大ヒットとなり一躍人気歌手仲間入りを果たす。特に「チャンチキおけさ」は、故郷恋し思い満ちた歌詞当時集団就職都会出ていた若者郷愁誘った翌年1958年昭和33年)、第9回NHK紅白歌合戦に「渡り鳥」で初出場1959年昭和34年)、テイチク歌謡曲流行歌レコード売上年間1位が「大利根無情」、2位が「忠太郎月夜」、3位が「チャンチキ酒場」と年間トップ3を独占した1960年昭和35年36歳3月1日から、歌手としては初の1か月公演大阪新歌舞伎座開催芝居歌謡ショー昼夜2回公演28日間、休日なしで行う。 1961年昭和36年38歳8月東京歌舞伎座公演での1か月公演開催以来1月名古屋御園座3月大阪・新歌舞伎座8月東京歌舞伎座での『三波春夫特別公演』を1980年8月まで20年連続定例公演とし、定着させた。この中で上演する芝居三波企画し、その7割の作・演出花登筺が手がけている。デビューから数年間は山口組三代目田岡一雄率い神戸芸能社傘下仕事をした。しかし、三波暴力団関係者親密交友関係を持つことはなかった。 1963年昭和38年6月東京オリンピック明くる年控えテーマソング東京五輪音頭」がレコード会社8社競作のもとで発表される楽曲発表の際には三橋美智也キング)が歌唱披露。元々、この作品三橋歌唱前提古賀政男作曲したのだった三橋以外に三波テイチク)、橋幸夫ビクター)、北島三郎&畠山みどりコロムビア)、坂本九東芝)らが歌っているが、中でも三波テイチク盤 が250万枚売り上げ突出して大ヒット100万突破の際には祝賀パーティー開かれ作曲者である古賀出席し古賀本人指揮の下、三波生歌披露している。 1964年昭和39年4月北村桃児きたむら・とうじ)のペンネームで自ら作詞構成した長編歌謡浪曲元禄名槍譜 俵星玄蕃」を発表浪曲師時代経験活かし、歌と浪曲融合させ、浪曲特有の啖呵台詞)や節回し取り入れながら、長時間浪曲コンパクト楽しんでもらおう創作した長編歌謡浪曲』は三波歌謡象徴となり、「俵星玄蕃」はまさに代表作1つとなった。これ以降歌手活動だけに留まらぬ精力的な創作活動を展開、「豪商一代 紀伊國屋文左衛門」(1966年)など数々日本史上の人物や出来事題材にした作品発表した1967年昭和42年3月1970年昭和45年3月から半年間、大阪開催決まった日本万国博覧会大阪万博)のテーマソング世界の国からこんにちは」が8社競作発表され総売上げが300万枚突破する。この曲でもテイチク三波盤 は130万枚大ヒットとなったこの頃から、「国民歌手」、「国民的歌手」が三波代名詞となったまた、1970年万博開催後、三波リベリア発行され日本万国博覧会開催記念切手登場している。日本の芸能人海外切手登場したのはこれが初めてのことだった。 戦後日本復興象徴ともいえる二つ国際的平和の祭典テーマソング東京五輪音頭」・「世界の国からこんにちは」の2曲は、三波生涯通じて大切に歌い続けたことで、歌手三波春夫代表曲として長く知られることとなったちなみに晩年1994年平成6年)の『芸道55周年記念リサイタル』でのMC三波はこの2曲を「生涯宝物でございます」と語っている。 1975年昭和50年三波春夫名義で『おまんた囃子』の作詞作曲手掛け50万枚ヒットとなる。 1976年昭和51年)、知己テレビプロデューサーで、「てなもんや三度笠」などで知られる澤田隆治からの企画提案を受け、自身初のリサイタルとなる「歌謡生活20周年記念リサイタル終り無きわが歌の道』」を開催澤田プロデューサーとして、実現のため奔走した1986年昭和61年)、11月紫綬褒章受章12月第37回NHK紅白歌合戦に、白組歌手として当時最多記録となる29年連続29回目出場を果たす(ちなみにこの時点史上最多出場30年連続出場島倉千代子)。だが、翌1987年昭和62年)の第38回NHK紅白歌合戦は、出場歌手選出方法大幅に変更になった事も影響し出場歌手発表前の11月6日に島倉が「30と言う区切り大切にしたい」と出場辞退発表三波同月25日、「後進道を譲りたい」として辞退することを発表したその2年後、1989年平成元年)の第40回NHK紅白歌合戦に、3年ぶり30回目復帰出場紅白40回目である事に加え元号が「昭和」から「平成」へ変わって初の紅白であるため、初の2部構成4時20分に及ぶ特別編となった三波は「第一部昭和紅白」に出場し、「東京五輪音頭」を歌っている。

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