「三河」の名称と由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 14:44 UTC 版)
『古事記』には「三川」と表記され、7世紀の出土木簡にもみな「三川国」と記されている。律令制-平城京までは「参河」と表記。長岡京以後は、「三河」と表記したことが、木簡から判明している。また、万葉集には三河は水河とも当て替えられている。 「三河」の国号の由来は、元来不明である。山崎闇斎は、再遊紀行の中で、参河風土記逸文と称して、三大河説を唱える。さらに、江戸中期の三河国二葉松で、序文の著者である小笠原基長と太田白雪がこの三大河説を補強する。古事記伝や東海道名所図絵にも引用されていく。諸国名義考;斎藤彦麻呂にも引用されているが、三大河説に疑義を唱え、大川を称え御川という自説を載せている。尾張藩士の岡田啓による三河国号起源;参河国全図;天保8年や渡辺政香;参河志にも引用される。 (江戸時代末期まで、先代旧事記;国造本紀が一般に広く知られていなかった。そのため、西三河=三河国造、東三河=穂国造という概念もないため、三河の国号が西三河から発祥しているという認識はなかった。) 他にも、江戸末期に豊橋の羽田野敬雄が、加茂の神の御川という説を唱えたが、支持されるに至っていない。矢作川は古代から矢作川と呼ばれており、御川と呼ばれていた事実はない。加茂は、加茂郡(豊田市)のことで、矢作川の上流に当たり、加茂の神(加茂神社)に絡めたものである。
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