「三河島」の地名のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:28 UTC 版)
「三河島町」の記事における「「三河島」の地名のその後」の解説
第二次世界大戦後の1960年代、三河島町の地名は大部分が「荒川」に、その他東尾久・東日暮里・西日暮里に編入されて消滅した。21世紀初頭の現在は、常磐線三河島駅や京成電鉄新三河島駅、金融機関の支店名以外にその名をほとんどとどめていない。なお「荒川」への変更は、三河島が荒川区の行政の中心であったためとされる。 「三河島」という地名の消滅について、1962年(昭和37年)5月3日に発生した三河島事故のイメージを払拭する思惑があったとする説もあるが、地図研究家の今尾恵介は俗説として退けている。「三河島町」の大部分が荒川に変更されたのは1961年10月31日(事故の半年前)である。わずかな面積が数年間「三河島町」として残ったが、道路からはみ出るなどしたわずかな面積であって、もともと他町名への分割編入が意図されたのであろうという。1964年7月1日に東尾久の分割編入が行われたあと、残った部分が1966年3月1日に東日暮里・西日暮里に編入され、行政地名としての「三河島」が消滅した。
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