「三笠宮双子説」をめぐってとは? わかりやすく解説

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「三笠宮双子説」をめぐって

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:07 UTC 版)

三笠宮崇仁親王」の記事における「「三笠宮双子説」をめぐって」の解説

京都華族山本實庸子爵末子として育てられ奈良円照寺門跡山本静山1916年大正5年) - 1995年平成7年)、俗名・絲子)が、実は三笠宮双子の妹だったと河原敏明主張した。これは1979年昭和54年)に『週刊大衆』に掲載された。宮内庁側は無視していたが、1984年昭和59年1月になって週刊新潮』『現代』『フォーカス』で再度取り上げられ今度大きな話題となった河原は、円照寺住んでいたこともある末永雅雄長井満双子説を話したという情報を得、それをもとに関係者取材始めたところ、戸籍上静山の生母とされる山下志うの出身地雄琴身内が静山についてほとんど知らないこと三笠宮出産立ち会った園祥子実家である園家26当主園基久証言、静山本人に直撃取材した際に母親没年間違え父親墓参にもほとんど行っていないこと、それと反対に皇族その周辺とは親し交流長く続いていること、幼少期の静山の里親だった今井家証言などにより双子説を支持し記事化した(のちに『昭和天皇妹君』として書籍化)。 宮内庁同年1月20日、この説を全面的に否定する声明発表した河原対し、静山本人は直接デマです」と否定し、また河原有力証言者とされた末永雅雄は、証言そのもの存在否定した河原の「皇室双子忌み嫌う」「特に男女双子情死生まれ変わりとして嫌われた」という主張に関しては、近代以降伏見宮家敦子女王知子女王姉妹1907年/明治40年生)が双子として誕生し、共に成長した事例があり、宮内庁反証として挙げた三笠宮夫妻後年になって、『母宮貞明皇后その時三笠宮殿下が語る思い出』(工藤美代子著、中央公論新社2007年)中のインタビュー双子説を否定した。 なお、三笠宮の兄である高松宮宣仁親王による『高松宮日記昭和15年(1940年)11月18日条には「15時30円照寺着。お墓参ってお寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十になって大人になった」とある。円照寺は、高松宮祭祀継承した有栖川宮ゆかりの寺院である。山本静山が、高松宮から「やすこ」と呼ばれる特別な人であったことが分かる原武史は、①この高松宮日記記述加え、②『蘆花日記大正4年1915年11月25日条および12月3日条、③『貞明皇后実録昭和15年1940年9月30日条、ならびに河原自身が、山本誕生日1月8日)と三笠宮との誕生日1カ月あまりのズレがあることを認めていることを根拠に、山本は「崇仁とともに生まれた二卵性双生児の妹ではなく嘉仁大正天皇)とある女官との間に生まれた庶子ではなかったか」と推測している。

※この「「三笠宮双子説」をめぐって」の解説は、「三笠宮崇仁親王」の解説の一部です。
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