「三笠宮双子説」をめぐって
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「三笠宮崇仁親王」の記事における「「三笠宮双子説」をめぐって」の解説
京都華族の山本實庸子爵の末子として育てられた奈良円照寺門跡・山本静山(1916年(大正5年) - 1995年(平成7年)、俗名・絲子)が、実は三笠宮の双子の妹だったと河原敏明が主張した。これは1979年(昭和54年)に『週刊大衆』に掲載された。宮内庁側は無視していたが、1984年(昭和59年)1月になって『週刊新潮』『現代』『フォーカス』で再度取り上げられ、今度は大きな話題となった。河原は、円照寺に住んでいたこともある末永雅雄が長井満に双子説を話したという情報を得、それをもとに関係者に取材を始めたところ、戸籍上静山の生母とされる山下志うの出身地・雄琴の身内が静山についてほとんど知らないこと、三笠宮の出産に立ち会った園祥子の実家である園家の26代当主園基久の証言、静山本人に直撃取材した際に母親の没年を間違え、父親の墓参にもほとんど行っていないこと、それと反対に皇族やその周辺とは親しい交流が長く続いていること、幼少期の静山の里親だった今井家の証言などにより双子説を支持し、記事化した(のちに『昭和天皇の妹君』として書籍化)。 宮内庁は同年1月20日、この説を全面的に否定する声明を発表した。河原に対し、静山本人は直接「デマです」と否定し、また河原に有力証言者とされた末永雅雄は、証言そのものの存在を否定した。河原の「皇室が双子を忌み嫌う」「特に男女の双子は情死の生まれ変わりとして嫌われた」という主張に関しては、近代以降も伏見宮家の敦子女王と知子女王姉妹(1907年/明治40年生)が双子として誕生し、共に成長した事例があり、宮内庁も反証として挙げた。三笠宮夫妻も後年になって、『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』(工藤美代子著、中央公論新社、2007年)中のインタビューで双子説を否定した。 なお、三笠宮の兄である高松宮宣仁親王による『高松宮日記』昭和15年(1940年)11月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」とある。円照寺は、高松宮が祭祀を継承した有栖川宮ゆかりの寺院である。山本静山が、高松宮から「やすこ」と呼ばれる特別な人物であったことが分かる。 原武史は、①この高松宮日記の記述に加え、②『蘆花日記』大正4年(1915年)11月25日条および12月3日条、③『貞明皇后実録』昭和15年(1940年)9月30日条、ならびに④河原自身が、山本の誕生日(1月8日)と三笠宮との誕生日に1カ月あまりのズレがあることを認めていることを根拠に、山本は「崇仁とともに生まれた二卵性双生児の妹ではなく、嘉仁(大正天皇)とある女官との間に生まれた庶子ではなかったか」と推測している。
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