「三連投」の伏線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/25 01:23 UTC 版)
伊達はもともと中学時代から捕手であった。しかし中学時代にマウンドに上った経験があり、高松商業の水原茂や和歌山中学の小川正太郎らと投げ合ったこともあった。遠投は120mと強肩を誇り、速球に加えて変化球も投げられたという。本人が「1試合で四球は1個か2個くらい」と語るほど制球力も確かだった。早大に進んだ1930年秋のリーグ戦、早慶戦は春から3連敗中、1回戦で小川らを使ったものの敗れ窮した早大・森茂雄監督代行に相談を受けた伊達が、自ら進言して2回戦のマウンドに立った。 結果は5回3失点で途中降板(伊達は敗戦投手に)、加えて8回に三塁走者だった伊達が外野フライでタッチアップしたときの離塁が早いとしてアウトの判定を受けてしまった。伊達は『週刊朝日』に抗議文を寄稿し、後年までこの判定が間違っていると主張したが、それほどに伊達は屈辱を味わい、心中雪辱を期した。
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