「三重帝国」構想
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1866年の普墺戦争に大敗北を喫した後、オーストリア帝国の威信は低下し、帝国政府に対する諸民族の自治要求の気運がますます高揚しつつあった。諸民族は、自治要求こそすれどもハプスブルク家からの完全独立は要求しなかった。ドイツ帝国とロシア帝国という強国に挟まれたこの地域で小国が存続することは不可能に思われたため、ハプスブルク君主国の範疇での権利獲得という選択肢以外は(ハンガリーを除いて)ほとんど考えられることはなかった。また、イタリア統一戦争によってイタリア北部の領土を喪失し、北部の統一ドイツ国家からも締め出されてしまったオーストリア帝国の関心は、必然的に東側のドナウ川流域に向けられることとなった。すなわち「ドナウ帝国」観念の浮上である。 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ハンガリー貴族たちの要求に応えてアウスグライヒを実行し、オーストリア帝国からハンガリー王国領を分離した。フランツ・ヨーゼフ1世は聖イシュトヴァーンの王冠を戴いてハンガリー王位に就くことで、1867年5月29日に「オーストリア=ハンガリー帝国」を成立させた。二重帝国の中央官庁として共同外務省と共同財務省が設置されたが、外交・軍事・財政以外の内政権は完全に認められるなど、形式的にはハンガリーは独立王国となった。一民族のみが優位を獲得したことを受けて、諸民族のハンガリー人に対する反発が高まったが、彼らはまた同時にみずからも妥協をかち取ろうと工作を開始した。 アウスグライヒ直後の1867年12月に制定された新憲法では「諸民族の平等」が規定された。1871年、ハンガリーに採られたものと同様の措置を要求するボヘミアのチェコ人たちに対し、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世ならびにドイツ人の優位性を維持しながら自由主義的な中央集権体制を目指す「ドイツ人自由派」に属する首相カール・ジークムント・フォン・ホーエンヴァルトは、聖ヴァーツラフの王冠のもとにボヘミア王国の独立を承認しようとした。 フランツ・ヨーゼフ1世のボヘミア国王としての戴冠式の実施も決定され、実現すれば「オーストリア=ハンガリー=ボヘミア三重帝国」が樹立されるはずだったが、この戴冠式はハンガリー首相アンドラーシ・ジュラ伯爵の猛反対に遭って断念された。ハンガリー国内の総人口においてハンガリー人は半分程度しか占めておらず、ハンガリー国内でのスラヴ民族の地位向上に繋がってしまう恐れがあり、またスラヴ民族の盟主としてロシア帝国の介入を促す恐れもあったためと考えられている。実際に適用されたのはハンガリーのみに留まったが、この時期のオーストリア帝国による一連の「妥協」の動きは、同君連合への移行という形での帝国連邦化計画だったといえる。
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