「三重帝国」構想とは? わかりやすく解説

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「三重帝国」構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:57 UTC 版)

ドナウ連邦構想」の記事における「「三重帝国」構想」の解説

1866年普墺戦争大敗北を喫した後、オーストリア帝国威信低下し帝国政府対す諸民族自治要求気運がますます高揚しつつあった。諸民族は、自治要求こそすれどもハプスブルク家からの完全独立要求しなかった。ドイツ帝国ロシア帝国という強国挟まれたこの地域小国存続することは不可能に思われたため、ハプスブルク君主国範疇での権利獲得という選択肢以外は(ハンガリー除いて)ほとんど考えられることはなかった。また、イタリア統一戦争によってイタリア北部領土喪失し北部統一ドイツ国家からも締め出されてしまったオーストリア帝国関心は、必然的に東側ドナウ川流域向けられることとなった。すなわち「ドナウ帝国観念浮上である。 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ハンガリー貴族たちの要求応えてアウスグライヒ実行しオーストリア帝国からハンガリー王国領を分離したフランツ・ヨーゼフ1世聖イシュトヴァーンの王冠戴いてハンガリー王位に就くことで、1867年5月29日に「オーストリア=ハンガリー帝国」を成立させた。二重帝国中央官庁として共同外務省共同財務省設置されたが、外交・軍事財政以外の内政は完全に認められるなど、形式的にハンガリー独立王国となった。一民族のみが優位獲得したことを受けて諸民族ハンガリー人対す反発高まったが、彼らはまた同時にみずからも妥協をかち取ろう工作開始したアウスグライヒ直後1867年12月制定され新憲法では「諸民族の平等」が規定された。1871年ハンガリーに採られたものと同様の措置要求するボヘミアチェコ人たちに対し皇帝フランツ・ヨーゼフ1世ならびにドイツ人優位性維持しながら自由主義的な中央集権体制目指すドイツ人自由派」に属す首相カール・ジークムント・フォン・ホーエンヴァルトは、聖ヴァーツラフの王冠のもとにボヘミア王国独立承認しようとした。 フランツ・ヨーゼフ1世ボヘミア国王としての戴冠式実施決定され実現すればオーストリア=ハンガリーボヘミア三重帝国」が樹立されるはずだったが、この戴冠式ハンガリー首相アンドラーシ・ジュラ伯爵猛反対遭って断念された。ハンガリー国内総人口においてハンガリー人半分程度しか占めておらず、ハンガリー国内でのスラヴ民族地位向上に繋がってしまう恐れがあり、またスラヴ民族盟主としてロシア帝国介入促す恐れもあったためと考えられている。実際に適用されたのはハンガリーのみに留まったが、この時期オーストリア帝国による一連の妥協」の動きは、同君連合への移行という形での帝国連邦化計画だったといえる

※この「「三重帝国」構想」の解説は、「ドナウ連邦構想」の解説の一部です。
「「三重帝国」構想」を含む「ドナウ連邦構想」の記事については、「ドナウ連邦構想」の概要を参照ください。

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