「三金」体制の復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 13:46 UTC 版)
「韓国における政党史」の記事における「「三金」体制の復活」の解説
35年ぶりに行われた1995年の地方自治選挙を前に、民自党内における主導権争いに敗れた金鍾泌は同党を離脱し、TK勢力の一部と旧統一国民党を取り込む形で自由民主連合(自民連)を結成した。そして、地方自治選挙後の7月に政界復帰を表明した金大中が新党・新政治国民会議(国民会議)を結成、民主党から多数の議員が参加したことで野党第1党となり、「三金」が復活することとなった。翌年4月の第15代国会議員選挙では、民自党から党名を改めた新韓国党、国民会議、自民連、それぞれの党が地盤とする地域で勝利を収め、反「三金」と反「地域主義」を前面に打ち出した民主党が敗北した。こうして、三金の出身地域に依拠した三党体制が構築され、「三金」の政治的影響力がより強化される結果となった。 表11:新「三金」の政党体制と地域政党総裁地盤地域新韓国党 金泳三 慶尚道地域(PK+TK) 国民会議 金大中 全羅道地域 自民連 金鍾泌 忠清道地域 国会議員選挙の翌1997年に行われた大統領選挙において、国民会議の金大中候補は自身を弾圧した朴正熙政権の中枢にいた金鍾泌が率いる自民連と連合し、国務総理を自民連から出すことや議院内閣制改憲を2000年までに行うことを旨とする協定を結んだ(DJP連合)。一方、与党であった新韓国党(総裁:李会昌)は民主党(総裁:趙淳)と合同し、ハンナラ党を創党したが、盧武鉉はハンナラ党には入党せず、国民会議への合流を選択した(入党した国民会議では副総裁に就任)。こうして選挙は、李会昌(ハンナラ党)と金大中(国民会議)、新韓国党を離党した李仁済(国民新党)の事実上3人による争いとなり、金大中が僅差で李会昌を破って当選を果し、韓国憲政史上初めてとなる与野党間の平和的政権交代が実現した。
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