ひゃくにん‐いっしゅ【百人一首】
百人一首
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/16 15:32 UTC 版)
百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは、百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰(詞華集)。百人首(ひゃくにんしゅ)とも呼ばれる[1]。
注釈
- ^ ただし定家自筆の「明月記」(国宝、冷泉家時雨亭文庫)は天福元年(1233年)の記述までしか現存しない。
- ^ 101首採録されている。百人秀歌を参照
- ^ なお、藤原定家の息子、為家の妻は宇都宮蓮生の娘だったことから、後に蓮生の中院山荘を相続している。
- ^ 『万葉集』巻一・二十八歌では『春過而 夏来良思 白妙之 衣乾有 天香具山』で、「夏(なつ)来(き)たるらし」(来たようだ)と「現在形」になっているが、『新古今和歌集』は「夏(なつ)来(き)にけらし」で「過去完了」の「推量」に転じている。
- ^ 『万葉集』巻一・二十八歌では、「衣(ころも)干(ほ)したり」(干してある)と「断定」になっており、「衣(ころも)干(ほ)すてふ」(干すと聞く)の「伝聞」の意味に『新古今和歌集』までに変じたとされる[要出典]。
- ^ 『万葉集』巻三・三百十七歌には「田児の浦ゆうち出て見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける」とある。
- ^ 柿本人麻呂、猿丸大夫、蝉丸の3名。また、僧侶の内に入っている喜撰法師も経歴・出自が一切不明である。
- ^ 空きの方が坊主で負けたら2倍、坊主だったら3倍も銀行に取られるなどの細かいルールもある。
- ^ ただし江戸時代以前の人々は、全体の1割程度に過ぎない[15]。
- ^ 選定委員は佐佐木信綱、土屋文明、折口信夫、斎藤茂吉、太田水穂、尾上柴舟、窪田空穂、吉植庄亮、川田順、斎藤瀏、松村英一、北原白秋ら12名[31]。ただし白秋は編纂の中途で逝去した。
- ^ 歌人は44人、歌は26首が重なっている[30]。
- ^ 川田版には、岩倉具視や西郷隆盛などの明治以後の人による歌も採録されている。
出典
- ^ 『大辞林』(第二十四刷)三省堂、1993年、2057頁。ISBN 4-385-14002-2。
- ^ a b 吉海直人 2020, p. 139.
- ^ a b c コトバンク 日本大百科全書「百人一首」[小町谷照彦]
- ^ 吉海直人 2020, p. 142.
- ^ a b コトバンク 平凡社世界大百科事典 第2版「小倉色紙」
- ^ コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「小倉色紙」
- ^ 宗政五十緒(1970)
- ^ a b “北海道伝統の競技カルタはまるで異文化。”. タビノト. 2022年9月18日閲覧。
- ^ ピーター・マクミラン「百人一首の心 世界へ響け◇英訳やカルタ大会企画、言葉も時代も超え詩情伝える◇」『日本経済新聞』朝刊2018年4月20日(文化面)
- ^ 吉海直人 (2015年10月26日). “「坊主めくり」の謎”. 同志社女子大学. 2022年12月5日閲覧。
- ^ 有吉保 1983, p. 124.
- ^ a b 伊藤嘉夫 1971b, p. 57.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 78.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 84.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 60.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 63.
- ^ 東洋大学貴重書デジタルコレクション小倉擬百人一首、小倉擬百人一首 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 66.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 69.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 72.
- ^ a b 伊藤嘉夫 1971b, p. 75.
- ^ 黒川真頼 撰『横文字百人一首』,朝倉久兵衛,明6.3. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 川副佳一郎 著『日本ローマ字史』,岡村書店,1922年(大正11年)
- ^ 土岐善麿 著『日本式になるまで』5頁,東京ローマ字会,1931年(昭和6年)
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 81.
- ^ 伊藤嘉夫 1971a, p. 41.
- ^ 伊藤嘉夫 1971a, p. 44.
- ^ 伊藤嘉夫 1971a, p. 50.
- ^ 伊藤嘉夫 1971a, p. 59.
- ^ a b 伊藤嘉夫 1971a, p. 62.
- ^ 田中康二 2012, p. 9.
- ^ 伊藤嘉夫 1971a, p. 68.
百人一首
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/26 09:47 UTC 版)
百人一首普及品 「小倉山」「深草」「小町」などがある。競技かるたの公式大会では当社製のものが使用される。 光琳かるた 尾形光琳作のかるたの完全復刻版
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百人一首
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百人一首史上最年少名人の西郷直樹氏と対決。コーチには小倉百人一首九段で西郷氏の師匠でもある田口忠夫氏を迎えた。
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百人一首
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67番 二月はかり 月のあかき夜 二条院にて人々あまたゐあかして物語なとし侍けるに 内侍周防よりふして 枕をかなとしのひやかにいふを聞て 大納言忠家 是を枕にとて かひなをみすの下よりさし入て侍けれは読侍ける 周防内侍春のよの夢はかりなる手枕に かひなくたゝむ名こそをしけれ — 『千載和歌集』 巻第十六 雑歌上 二条院で貴族たちが語らっていた夜、ふと疲れた周防内侍が「枕がほしい」と言ったところ、藤原忠家が「これを枕に」と御簾の下から腕を差し出してきたため詠んだ歌。
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百人一首
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90番 殷富門院大輔見せはやなおしまのあまの袖たにも ぬれにそぬれし色はかはらす — 『千載和歌集』 巻第十四 恋歌四 この歌は、源重之が詠んだ たいしらす 源重之松島やをしまの礒にあさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか — 『後拾遺和歌集』 巻第十四 恋歌四 の本歌取となっている。
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百人一首
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70番 さびしさに 宿をたち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ 良暹法師(「後拾遺和歌集」秋上333) ポータル 文学 表 話 編 歴 小倉百人一首 歌人(一覧)1 天智天皇 2 持統天皇 3 柿本人麻呂 4 山部赤人 5 猿丸大夫 6 中納言家持 7 阿倍仲麻呂 8 喜撰法師 9 小野小町 10 蝉丸 11 参議篁 12 僧正遍昭 13 陽成院 14 河原左大臣 15 光孝天皇 16 中納言行平 17 在原業平朝臣 18 藤原敏行朝臣 19 伊勢 20 元良親王 21 素性法師 22 文屋康秀 23 大江千里 24 菅家 25 三条右大臣 26 貞信公 27 中納言兼輔 28 源宗于朝臣 29 凡河内躬恒 30 壬生忠岑 31 坂上是則 32 春道列樹 33 紀友則 34 藤原興風 35 紀貫之 36 清原深養父 37 文屋朝康 38 右近 39 参議等 40 平兼盛 41 壬生忠見 42 清原元輔 43 権中納言敦忠 44 中納言朝忠 45 謙徳公 46 曽禰好忠 47 恵慶法師 48 源重之 49 大中臣能宣朝臣 50 藤原義孝 51 藤原実方朝臣 52 藤原道信朝臣 53 右大将道綱母 54 儀同三司母 55 大納言公任 56 和泉式部 57 紫式部 58 大弐三位 59 赤染衛門 60 小式部内侍 61 伊勢大輔 62 清少納言 63 左京大夫道雅 64 権中納言定頼 65 相模 66 大僧正行尊 67 周防内侍 68 三条院 69 能因法師 70 良暹法師 71 大納言経信 72 祐子内親王家紀伊 73 権中納言匡房 74 源俊頼朝臣 75 藤原基俊 76 法性寺入道前関白太政大臣 77 崇徳院 78 源兼昌 79 左京大夫顕輔 80 待賢門院堀河 81 後徳大寺左大臣 82 道因法師 83 皇太后宮大夫俊成 84 藤原清輔朝臣 85 俊恵法師 86 西行法師 87 寂蓮法師 88 皇嘉門院別当 89 式子内親王 90 殷富門院大輔 91 後京極摂政前太政大臣 92 二条院讃岐 93 鎌倉右大臣 94 参議雅経 95 前大僧正慈円 96 入道前太政大臣 97 権中納言定家 98 従二位家隆 99 後鳥羽院 100 順徳院 関連項目百人秀歌:53 一条院皇后宮 73 権中納言国信 90 権中納言長方決まり字 | 競技かるた | 全日本かるた協会 | 名人・クイーン | 全国職域学生かるた大会 | 高校選手権 | 文化財団 | 時雨殿小倉百人一首(ウィキソース) | 読み札(ウィキメディア・コモンズ) この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 良暹法師に関するカテゴリ: 小倉百人一首の歌人
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54番 中関白かよひそめ侍けるころ 儀同三司母忘しの行末まてはかたけれは けふをかきりの命ともかな — 『新古今和歌集』 第十三 恋歌三 藤原定家は『定家八代抄』にも撰んでいる。
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89番 百首歌中に 忍恋を 式子内親王玉のをよたえなはたえねなからへは 忍ふることのよはりもそする — 『新古今和歌集』 巻第十一 恋歌一 伝説では、内親王と定家の噂が立ったため、定家の父俊成が別れさせようと定家の家にやってきた。すると定家は留守で、部屋に内親王自筆のこの歌が残されていた。これを見た俊成は二人の想いの真剣さを感じて、何も言わず帰ったという。 実際にはこの歌は題詠であって、内親王自身の気持ちを詠ったものではないとされる。
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百人一首
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92番 寄石恋といへる心を 二条院讃岐わか袖は塩干に見えぬ沖の石の 人こそしらねかはくまもなし — 『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二 「沖の石の讃岐」はこの歌によりつけられた異名である。
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