百人一首の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)
百人一首は、1235年(嘉禎元年)、宇都宮入道蓮生(宇都宮頼綱)が京都嵯峨野小倉山に建設した中院山荘の障子(現在の襖)に貼る色紙形のために、宇都宮蓮生より色紙染筆の依頼を受けた藤原定家が、上代の天智天皇から当代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが原型といわれる。なお、蓮生は定家にとって子息藤原為家の岳父にあたる。カルタ遊びとなったのは後代のことであるが、定家著『近代秀歌』とは若干の異同があり、これについては、公式の著述には鎌倉幕府の権力をはばかったものの私的な染筆に際しては定家はみずからの美学に忠実たろうとしたのではないかという見解がある。百人一首、『近代秀歌』ともに古来、王朝和歌の入門として人びとに親しまれてきた。
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