史上最年少名人
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プロデビュー後、谷川は、順位戦において2期目の1978年度から4期連続昇級して一気にA級に上がる。この間、1978年度に、若手の登竜門である若獅子戦で棋戦初優勝をしている。 1982年4月1日付けでA級八段となった谷川の夢は、中原名人を破って名人となることであった。その4月に始まった第40期名人戦七番勝負では、中原名人と加藤一二三挑戦者が、持将棋1局、千日手2局を含むフルセットの「十番勝負」を戦った。最終局、加藤十段が勝ち名人を奪取したが、東京・将棋会館で最終局の解説をした谷川は、当時の心境について、「加藤先生には申し訳ないが、中原先生に名人のままでいてもらわなければ困ると思っていた。(解説役を務める立場なのに)加藤先生の勝ちとなったときには呆然とした。」との旨を語っている。また、後年の自著には、「名人戦の舞台で、加藤先生と戦えたことは、幸運であった。」と書いている。 谷川は、第41期名人戦挑戦者決定リーグ戦(A級順位戦)で7勝2敗の成績を収め、中原誠とのプレーオフを制して名人挑戦権を得る。そして、第41期名人戦(谷川4-2加藤)の第6局(1983年6月14日 - 6月15日)に勝ち、初タイトル・名人を獲得。史上最年少名人(21歳)の記録を打ち立てた。谷川は五段から八段を全て順位戦昇級により昇段したため、初めて五段から九段まで全て順位戦の昇級規定で昇段したことになる(後に丸山忠久も達成)。タイトル獲得での会見で「1年間、名人位を預からせていただきます」と語った。後に、将棋フォーカスのインタビューでは、「他のタイトル戦は中原誠先生に後れを取っていると感じていた。」と語っている。 1983年7月19日の対・大山康晴戦(王位リーグ)で、大山の玉を詰ます手順の中で打ち歩詰め回避の角不成(99手目▲4三角引不成)という、まるで作った詰将棋のような手を指して勝っている(実際の局面図は打ち歩詰め#実戦における打ち歩詰め を参照)。 1983年度の第2回全日本プロトーナメントで、プロ入りが同期の田中寅彦と決勝三番勝負を戦う。両者は若手時代、谷川は終盤得意、田中は序盤得意と比較され、ライバルと呼ばれることもあった。谷川は決勝を2-1で制し、全棋士参加のトーナメント棋戦における初優勝を果たした。同棋戦とは相性が良く、19回の歴史の中で谷川の優勝は通算7回、準優勝は通算3回である。 翌年(1984年)、初のタイトル防衛戦となる第42期名人戦(谷川4-1森安秀)では、粘り強い棋風から「だるま流」と呼ばれた森安秀光を相手に、4勝1敗で名人位防衛に成功する。このとき「これで弱い名人から、並みの名人になれたと思います」と述べている。 第44期(1984年度前期)棋聖戦(谷川0-3米長)では、米長邦雄棋聖(棋王・王将)に挑戦。注目を浴びた名人対三冠王の勝負で谷川は、第1局での相手の歩の数を間違えて読むというポカ、第2局での米長の「泥沼流」の受け(91手目▲5八玉)から逆転負けなどを経験し、ストレート負け・タイトル戦初敗北を喫する。 1985年度、3度目の防衛戦となる第43期名人戦(谷川2-4中原)で挑戦者の中原に敗れ、同年度の王座戦(谷川1-3中原)では奪取に失敗した。一方、全日本プロトーナメントで3連覇し、第11期棋王戦(谷川3-0桐山)では「いぶし銀」こと桐山清澄から棋王位を奪取した。さらには、NHK杯戦優勝、初の最多勝利(56勝)、前述の王座挑戦などの活躍により、将棋大賞の最優秀棋士賞を初受賞する。
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