百人一首
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藤原定家が京都小倉山の山荘で鎌倉時代初期に揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが「歌がるた」として広く用いられ、後世に定着して小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)と呼ばれている。
注釈
- ^ ただし定家自筆の「明月記」(国宝、冷泉家時雨亭文庫)は天福元年(1233年)の記述までしか現存しない。
- ^ 101首採録されている。百人秀歌を参照
- ^ なお、藤原定家の息子、為家の妻は宇都宮蓮生の娘だったことから、後に蓮生の中院山荘を相続している。
- ^ 『万葉集』巻一・二十八歌では『春過而 夏来良思 白妙之 衣乾有 天香具山』で、「夏(なつ)来(き)たるらし」(来たようだ)と「現在形」になっているが、『新古今和歌集』は「夏(なつ)来(き)にけらし」で「過去完了」の「推量」に転じている。
- ^ 『万葉集』巻一・二十八歌では、「衣(ころも)干(ほ)したり」(干してある)と「断定」になっており、「衣(ころも)干(ほ)すてふ」(干すと聞く)の「伝聞」の意味に『新古今和歌集』までに変じたとされる[要出典]。
- ^ 『万葉集』巻三・三百十七歌には「田児の浦ゆうち出て見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける」とある。
- ^ 柿本人麻呂、猿丸大夫、蝉丸の3名。また、僧侶の内に入っている喜撰法師も経歴・出自が一切不明である。
- ^ 空きの方が坊主で負けたら2倍、坊主だったら3倍も銀行に取られるなどの細かいルールもある。
- ^ ただし江戸時代以前の人々は、全体の1割程度に過ぎない[15]。
- ^ 選定委員は佐佐木信綱、土屋文明、折口信夫、斎藤茂吉、太田水穂、尾上柴舟、窪田空穂、吉植庄亮、川田順、斎藤瀏、松村英一、北原白秋ら12名[31]。ただし白秋は編纂の中途で逝去した。
- ^ 歌人は44人、歌は26首が重なっている[30]。
- ^ 川田版には、岩倉具視や西郷隆盛などの明治以後の人による歌も採録されている。
出典
- ^ 『大辞林』(第二十四刷)三省堂、1993年、2057頁。ISBN 4-385-14002-2。
- ^ a b 吉海直人 2020, p. 139.
- ^ a b c コトバンク 日本大百科全書「百人一首」[小町谷照彦]
- ^ 吉海直人 2020, p. 142.
- ^ a b コトバンク 平凡社世界大百科事典 第2版「小倉色紙」
- ^ コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「小倉色紙」
- ^ 宗政五十緒(1970)
- ^ a b “北海道伝統の競技カルタはまるで異文化。”. タビノト. 2022年9月18日閲覧。
- ^ ピーター・マクミラン「百人一首の心 世界へ響け◇英訳やカルタ大会企画、言葉も時代も超え詩情伝える◇」『日本経済新聞』朝刊2018年4月20日(文化面)
- ^ 吉海直人 (2015年10月26日). “「坊主めくり」の謎”. 同志社女子大学. 2022年12月5日閲覧。
- ^ 有吉保 1983, p. 124.
- ^ a b 伊藤嘉夫 1971b, p. 57.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 78.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 84.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 60.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 63.
- ^ 東洋大学貴重書デジタルコレクション小倉擬百人一首、小倉擬百人一首 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 66.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 69.
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 72.
- ^ a b 伊藤嘉夫 1971b, p. 75.
- ^ 黒川真頼 撰『横文字百人一首』,朝倉久兵衛,明6.3. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 川副佳一郎 著『日本ローマ字史』,岡村書店,1922年(大正11年)
- ^ 土岐善麿 著『日本式になるまで』5頁,東京ローマ字会,1931年(昭和6年)
- ^ 伊藤嘉夫 1971b, p. 81.
- ^ 伊藤嘉夫 1971a, p. 41.
- ^ 伊藤嘉夫 1971a, p. 44.
- ^ 伊藤嘉夫 1971a, p. 50.
- ^ 伊藤嘉夫 1971a, p. 59.
- ^ a b 伊藤嘉夫 1971a, p. 62.
- ^ 田中康二 2012, p. 9.
- ^ 伊藤嘉夫 1971a, p. 68.
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