満洲民族 生業と文化・習俗

満洲民族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/05 02:32 UTC 版)

生業と文化・習俗

伝統的生業

さて依然中国にいたるまではいうにとってが主な生業。農耕はムギアワヒエキビなど穀類を中心とする天水農業であった[20]。狩猟はテンキツネミンクリスなど毛皮目的であり、中華料理の食材となるキクラゲキノコ類、松の実、薬用として知られる朝鮮人参(オタネニンジン)の採集などもおこなわれた[19][20][52]。清朝の軍事組織として知られる八旗も、その編成方法は元来、満洲族の狩猟生活からあみだされた巻狩の制を応用したものだったといわれる[7][24]

明代後期の遼東地方で当時高額で取引された二大商品といえば、クロテンの毛皮と山岳地帯に自生する薬用人参であった[52][注釈 25]。こうした産物は現地で消費されず、奥地からリレー式に遼陽にもたらされ、さらに北京方面へと送られて、穀物織物金属製品といった中国内地の商品と交換される[20]。ヌルハチはこうした特産品のルートを掌握して交易の利益を得ていた氏族長のひとりであった[52]

ヌルハチの故地に関して言えば、その地は山がちで大小の河川が縦横に流れ、斜面や点在する平地ではコーリャンなどが栽培されていたが、農地としては必ずしも恵まれていなかった[53]。したがって、西方に隣接する肥沃で広大な遼東平野の農地は、彼にすれば垂涎の的であった[53]。ヌルハチは遼東に進出するや女真人(満洲人)をこの地に続々と移住させ、農耕国家として発展する基礎を固めた[53]

またブタ養がなされており、産地としても有名であった[注釈 26]。ただし、こうした生業のみで十分な自給自足ができるというほどの経済的基盤を有していたわけではなかった[19][注釈 27]。なお、吉林省吉林市の鷹屯[注釈 28]は、鷹狩に従事する八旗の兵士が代々居住し、鷹匠を数多く輩出した地であり、古い狩猟文化を今日に伝えている[54]

習俗と生活文化

辮髪にカットする巡回理髪者(19世紀、トーマス・アロム英語版画)

漢民族に見られる纏足の習慣は満洲族女性にはなかった。女性の服飾は、上述したチーパオまたはベストを着用することが多く[54]、男性は伝統的に筒袖チョッキズボンという服飾を好んだ[55]

対して、満洲族男性のヘアスタイルであった[56]。1644年の北京入城直後、清の第3代皇帝フリン(順治帝)の摂政ドルゴンは、清に服属するか逆らうかを区別するため、漢族に対しても「薙髪令」を発令した[56][57]。この際は、中華思想の根強い抵抗のため強制できなかった[57][注釈 29]。しかし、1645年、「薙髪令」を再発令し、辮髪を強制した[56][58]。このとき、辮髪を拒否する者には死刑を以て臨んだ[56][57]儒教の伝統的な考えでは、毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、タブーであったため、抵抗する者も多かったが、清朝は辮髪を行った者に対しては「髪を切って我に従うものには、すべてもとどおり安堵する」として従来の生活や慣習が行えることを保証した[57]。清朝は、漢族が辮髪を死ぬほど嫌い抜いていることを承知したうえで、あえて「薙髪令」を再発令したのであり、ある意味、清朝の敵味方の識別のためには、これ以上効果的な策はなかった[57]

やがて、19世紀には辮髪が完全に普及し、僧侶道士と女性のほかはことごとく辮髪するようになり[56]、中国のものと見なされるようになった。

氏族制と社会文化

伝統衣装を着た現代の満族男性(2012年)

満洲族「哈喇(ᡥᠠᠯᠠ,)」または「ムクン(mukūn)」と呼ばれる父系氏族とした[59]。ロシアのセルゲイ・シロコゴロフ英語版はかつて、ハラが基本的な血縁組織であり、その後、血縁組織の発展にともないガルガン(garugan)、ムクンの2層が生じたと論じ、中国の莫東寅はこれを継承して、ハラ(部族)、ガルガン(胞族)、ムクン(氏族)の三層構造を唱えた[59]。しかし、シロコゴルフ・莫東寅の説は、今西春秋が指摘しているように何ら史料的根拠を有しない[59]。これに対し、三田村泰助は、詳細な検討の結果、ムクンをハラから派生した地域関係を基とする血族集団とみなす見解を示した[59]。ムクンがハラより発生したとする説は、現在、多くの専門家の支持する定説となっている[59]。ムクンは、金代女真族の「謀克」を原義としているとみられ、一義的には「族」、二義的には「氏」を表しており、一方、ハラには「姓」の字があてられる[59]。清代にあっては、ハラはもはや実体をともなった血縁組織とはいえず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存したのだった[59]

明・清両王朝の皇宮となった紫禁城では、明が内廷(後宮)と外廷の間に塀を設け、その区別が厳格であったのに対し、清朝ではその塀を撤去して両者の区別は緩やかなものとなり、また、内廷においても男子禁制が明ほどには厳しくなかった[60]。このことは、漢族の家族制と満洲族の氏族制の相違が反映しているものととらえることができる[60][注釈 30]

満洲族の姓氏

1個のハラは複数のムクンを包含するが、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、ハラ組織は元来、地域的同一性を有していた[59]。女真族(満洲民族)のハラの由来は、次の2種に大別できる[59]

  1. 地名や河川名を姓とするもの … グワルギャ(瓜爾佳中国語版)、トゥンギャ(佟佳)、ドンゴ(董鄂)、マギャ(馬佳)など。
  2. 古来のトーテムを姓とするもの … ニョフル(鈕祜禄中国語版、原義は「オオカミ」)、サクダ(薩克達、原義は「イノシシ」)、ニマチャ(尼馬察、原義は「」)、ショムル(舒穆禄)など[59]

ハラは、当初は族外婚の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった[59]。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったもので、その過程も示していた[61]。たとえば、ギョロ(覚羅)というハラは、『氏族通譜』によれば、イルゲンギョロ(伊爾根覚羅)、シュシュギョロ(舒舒覚羅)、シリンギョロ(西林覚羅)、トゥンギャンギョロ(通顔覚羅)、アヤンギョロ(阿顔覚羅)、フルンギョロ(呼倫覚羅)、アハギョロ(阿哈覚羅)、チャラギョロ(察喇覚羅)という8つのムクンに分かれ、さらにそれぞれが多数の分枝を持っていた[61]。ハラからムクンが生じた理由のひとつは族外婚規制の機能緩和であって、すでに明代女真族において婚姻禁忌が破られていたことにある[61]。すなわち、同一ハラ内の異ムクンとの通婚を可としたのである[61]。太祖ヌルハチはアイシンギョロ(愛新覚羅)氏出身であったが、その妻にはイルゲンギョロ氏2名、シリンギョロ氏1名、ギャムフギョロ(嘉穆瑚覚羅)1名、計4人の異ムクンの妻女が含まれていた[61]

満洲民族の姓氏は本来、アイシンギョロ(愛新覚羅、ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨ
ᡤᡳᠣᡵᠣ
, aisin gioro)、イェヘナラ(葉赫那拉、ᠶᡝᡥᡝ
ᠨᠠᡵᠠ
, yehe nara)、ヒタラ(喜塔臘、ᡥᡳᡨ᠋ᠠᡵᠠ, hitara) 等にみられるように満洲語に基づいたものであった。しかし、現代満族の多くは、漢民族の姓氏になぞらえて主に一文字の「漢姓」を用いている。これは、清末期の辛亥革命の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、中華人民共和国成立後の文化大革命など、中国当局の弾圧を避けるための一方策であったと考えられる。しかしながら、その場合であっても、

  • アイシンギョロ(愛新覚羅) → 「」「」または「」に
  • グワルギャ(瓜爾佳中国語版ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ, gūwalgiya) → 「」に
  • イェヘナラ(葉赫那拉) → 「」または「中国語版」に
  • イルゲンギョロ(伊爾根覚羅、ᡳᡵᡤᡝᠨ
    ᡤᡳᠣᡵᠣ
    , irgen gioro) → 「趙」または「」に
  • ニョフル(鈕祜禄) → 「」または「」に[59]
  • フチャ(富察、ᡶ᠋ᡠᠴᠠ, fuca) → 「中国語版」または「」に
  • ヘシェリ(赫舎里、ᡥᡝᡧᡝᡵᡳ, hešeri) →「中国語版」「」または「中国語版」に
  • トゥンギャ(佟佳 ᡨᡠ᠋ᡢᡤᡳᠶᠠ, tunggiya) → 「」に
  • ワンギャ(完顔、ᠸᠠᠩᡤᡳᠶᠠ, wanggiya) → 「」に

というように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族 ― 哈喇(姓)漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。

満洲民族はもともとモンゴル人の影響を受けて、漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣はなく、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は、例えば「グワルギャ姓のオボイ(満洲語: ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ
ᡥᠠᠯᠠ ᡳ
ᠣᠪᠣᡳ
, gūwalgiya hala-i oboi) 」のような呼び方をしていた。

婚姻

伝統的な婚姻は、族外婚と満漢不婚によって特徴づけられる[62][63]。族外婚規制は、同じ氏族同士は結婚しないという原則であり、現代においても濃厚に確認でき、しかも、その規制の強さは漢族以上である[62][63][注釈 31]。上述した「ハラ(旧氏族)」は当初、族外婚の単位であったが、その分節化によって生じた「ムクン(新氏族)」が現代における族外婚単位となっている[59][61]

満漢不婚は、満族と漢族の婚姻禁止の慣習であったが、現代においては守られていない[62][63]。かつて満洲族は全体が八旗の組織に入る旗人であり、入旗していない漢族との通婚は許されていなかったが、入旗している漢族(漢軍八旗)との結婚は可能であった[62][63]。なお、彼らが女真族と称していた時代にあっては、子が継母を娶ったり、弟が嫂を娶ったりする収継婚も多かったが、ホンタイジの時代に入ると漢人的な観念が浸透して旧俗矯正が図られ、収継婚は禁止された[63]

満洲族の婚姻の旧俗では、子女が成年に達すると双方の両親または仲人の話し合いを経て、双方の「門戸帳」(本人の生辰八字(生年月日)と姓氏三代(曾祖父母・祖父母・父母の姓名)が記されている)を交換し、これが適合すれば婚約できるなど、おびただしい数のしきたりと規制があった[63]

葬送と殉死の風習

太祖ヌルハチに殉死した夫人、アバハイ(孝烈武皇后)

女真族の旧俗では、火葬が行われていた[64]。ヌルハチもホンタイジも火葬され、3代順治帝は火葬制度を詳細に定め、彼自身も火葬された[64]順治年間以降、北京の満洲族はしだいに土葬を行うようになったが、清朝は漢化を防止する観点から、各地に駐防する旗人の行動に厳しい制限を課し、死後、現地に墳墓を設けることを許さず、必ず京旗に帰葬することとした[64]。そのため、火葬の風習は各地の駐防にたずさわる旗人の間で保たれた[64]。しかし、乾隆年間になると、各地の戦役も収まり、火葬を不孝・不道とみなす漢族の儒家思想の影響も受けていたので、乾隆帝は死後に現地で土葬することを許可し、帰葬を一律に禁止した[64]

女真の人びとはまた、死者の葬送のために牛・馬を殺してこれを死者に捧げ、その肉を食すという旧俗をもっていた[64]。このような習俗は康熙帝の頃まではつづいたが、やがて漢民族の習俗を取り入れ、紙馬をもって祭礼をおこなうようになった[64]

殉死の風習も広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4人の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にも正妃アバハイと2人の側室が殉死した[64]。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されなかった[64]。ホンタイジの死去の際には近侍2名が殉死している[64]。殉死の旧俗が満洲族の社会で連綿と続いてきたのは、奴婢の制度と無関係ではないと考えられる[64]。康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の霊魂を祭ることとなった[64]

言語・文字

満州文字の朱印
「白山黒水、源遠流長」の満洲語 "Šanyan alin, sahaliyan muke, sekiyen goro, eyen golmin" を満文で示している。

なかの言語も概ね他の諸語において顕に[14]。語彙ではとくに、モンゴル語漢語からの借用語も多い[65]。清朝にあっては第一公用語の地位にあった[66]。満洲語は、その話者が北京はじめ中国全土に居住するようになり、言語分布は拡大したが、漢人に比較すると人口の絶対数がきわめて少なかったので、満洲族の文化は漢化し、言語も漢語を話すようになり、満洲語はしだいに使わなくなっていった[67][68][69]。満洲語使用は、すでに清朝中期の隆盛期には衰微の兆候を示していたという[67]。現代、満洲語は中国東北部のごく一部でしか話されなくなっている[65][注釈 32]。なお、乾隆年間中期にイリ地方へ移住したシベ族の末裔は今日でも満洲語を話している[65][68]。これをシベ語といい、シベ語(シベ文字)の新聞書籍も発行されている[65]

満洲文語の資料には、『満文老檔』をはじめとする記録類[71]、満洲・モンゴル・漢・チベットウイグル5族の言語を対照させた『御製五体清文鑑中国語版』などの辞書類、『大蔵経』、漢文古典その他大量の翻訳文献などがある[68][注釈 33]。また、文語資料にはあたらないが17世紀の日本越前国の船乗りが漂流した際の記録、『韃靼漂流記(異国物語)』には当時の満洲語が仮名文字で収録されている[68]。満洲語についての情報の大半はこの種の文書記録から得られたものであり、この文語の基盤となった南部方言の直接的な記録は乏しい。満洲語について近代的な記録が行われ始めた19世紀には、満洲語はほとんど少数の知識人や官吏に依って用いられる人工的に整えられた形体となっており、西洋人による構造や文法についての記録が高い一貫性を持つ一方で、発音についての記録はしばしば混乱している[72]


満洲文字に先立つ女真文字については、金石文の発見や辞書に収録されたにおける[73]完顔希尹中国語版や完顔葉魯(耶魯)らによって1119年に創成された女真大字は表意文字、1138年に金の第3代皇帝熙宗が制定し、1145年に公布したと記される女真小字は表音文字であった[74]。大字のみで表記、小字のみで表記、という三様の表記法があった[74]女真語は満洲語に近い言語だとみられる[68]。両者は姉妹語関係にあったというよりは、むしろ方言的関係にあって、女真語は広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる[73]

満洲文字は、左から縦書きで右に改行する[66]。ホンタイジが、ギョルチャ氏の満洲旗人に命じて改良させた[66][75][注釈 34]新疆ウイグル自治区に在住するシベ族は、満洲文字を改良したシベ文字を使用している[66]

宗教

水浴びをする三仙女(『満洲実録』)

自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった[76]。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある[76]。星神とは、具体的には北斗七星であり、満洲語では「ᠨᠠᡩ᠋ᠠᠨ
ᡠᠰᡳᡥᠠ
, nadan usiha, ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する[76]。記録によれば、満洲族の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は占卜や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである[76]。満洲族に近い、同じツングース系のホジェン族[注釈 35]もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する[76]。満洲族の七星神は、のちに祭礼が固定的なものに整備されていき、それにともない人格神化していった[76]

瀋陽故宮(旧、奉天行宮)の神杆(神鳥の止まり木)

満洲族は鳥・鵲(カササギ)・イヌを崇拝した[77]。鳥・鵲の崇拝は満洲族のシャーマニズム信仰の古層をなしており、長白山で水浴びをしていた天女(三仙女の末娘)フォクレン(仏庫倫)が神鵲がくわえてきた朱果を食して感精し、満洲の始祖のブクリヨンション中国語版(布庫里雍順、愛新覚羅氏)を産んだという伝説がのこる[77]。『満洲実録』でも鳥や鵲に関するいくつかの伝承が記述されており、同著の満文本では満洲人の後裔はカササギを祖としたことを伝えている[77]。また、ヘトゥアラに抑留されていた朝鮮人李民煥の著述した『建州聞見録』では、建州女真がイヌを自分たちの祖先と見なしていて、イヌを殺したり食べたり、イヌ皮を使用することを決して許さないという習俗をもっていたことにふれている[77]。こうした習俗は、清朝を通じて変わらなかった[77]

満洲族は元来、自身を地上に降臨した天上界に住む神々の子孫であると信じ、自身の氏神を中心として団結した[7]神、人面身の神、大鳥神(人面怪鳥の神)、突忽到瑪法(海獣の形象から変化した神)、鹿神などは、満洲の各氏族における保護神や祖神などとして崇められた[77]。彼らは森林地帯での狩猟や採集に際して、しばしば各種の猛獣の襲撃に直面し、予期せぬ災禍や不幸に見舞われ、あるいは漁撈に際しても数々の危険や事故に遭遇し、自分たちの無力さを悟ることも多かったと考えられる[77]。そこで鳥獣を神格化して祭祀し、その勇気や能力を借りて災厄を逃れようと願ったところから動物崇拝が始まったのだろうと推測される[77]。ここにおいてシャーマンが憑依して、たとえば、虎の各種の動作を真似て病人に災いをなす妖魔を威嚇することにより、病気が治癒されるものと信じられた[77]。鹿神は、ウジャラ(烏扎拉)氏が鹿の角を採取する際に祭った神であったが、ここではシャーマンが帽子の上に一対の鹿の角を挿し、鹿神に憑依するものとされた[77]

女真族(満洲族)は、仏教、とりわけモンゴル族の影響でチベット仏教になじんでいき、漢民族との交流を通じて彼らの民間信仰、とくに道教からの影響も受けていった[5][78]。1616年の後金建国の際、ヌルハチはヘトゥアラ城東の山上に仏教寺院、玉皇廟、十王殿などを建設して、これを「七大廟」と称した[78]関帝関羽)、仏祖(釈迦)、観世音菩薩はしだいにシャーマニズムの神祇の列に加えられ、清朝宮廷や一般満洲族から尊崇されるようになり、満洲古来の神々よりも篤い崇拝を受けた[78]

1626年、ホンタイジが即位した直後の儀礼では、最後に支配領域における弓の達人らに弓を射させる「射柳の儀式」が執行されたが、これは金時代の女真がシャーマニズムの拝天の祭儀に付属して行った儀式を継承したものであった[79]。北京の紫禁城内廷の坤寧宮、盛京(現在の瀋陽)の奉天行宮の清寧宮は、ともに、中国皇帝を兼ねる満洲族のハーンが、シャーマンの祭祀を行った祭神殿として独特の設計が施されており、その入り口の南には神杆(しんかん)、すなわち神鳥の止まり木が建てられていた[79]。坤寧宮では元旦行礼などの特別な祭祀のほか、常祭である朝・夕の祭りが毎日行われ、ブタが生贄として供えられた[79]。また、神々の前で「薩満太々(サマンタイタイ)」と称される巫女が満洲語の神歌を唱え、跳ね回ったという[79]。シャーマニズムの伝統は、満洲族が中国内地の支配的地位に立ってからも温存されたのであった。

神話・伝承

『満文老檔』天命6年(1621年)条や満文『内国史院檔』天聡8年(1634年)条には、当時の女真族(満洲族)が日食月食という天文現象を「天界の犬が太陽を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や朝鮮民族チュルク系民族、また、パレオアジア語系とみられるニヴフ(ギリヤーク)にもみられる[80]

また、これに似た説話として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 ice manju/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つのモチーフをともなう説話も伝わっている[80]。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話(東明王朱蒙伝説)にも共通し、オロチョン族ナナイ族などツングース系民族の説話にもみられる[80][注釈 36]

歌舞と武術

金昆・程志道・福隆安「氷嬉図」(『清代宮廷生活』より
厳寒期の北京でスケートをしながら矢を射る技を披露する八旗軍人

満洲族は、歌舞に長けた民族として知られており、そこには鮮やかな民族的個性と独特の品格がみられる[81]。満洲族のなかで最もさかんに行われたのは、莽勢舞(莽式舞)と称する歌舞で、別名を「空斉」といった[81]。莽勢舞は、集団のなかの1人が歌い、他の衆は「空斉」を以てこれに和し、正月や祝祭日に男女が相対して舞うというものであった[81]。この舞には「九折十八式」と称される、漁撈・狩猟・騎射などの生活を反映した9つの舞のかたち、身体部位を用いた18の所作があったと伝わっている[81]。清朝の北京入城後は宮廷に取り入れられて大規模化し、慶隆舞へと発展した[81]。慶隆舞は、揚列舞(武舞)と喜起舞(文舞)の二部で構成された[81]

習武に関しては、満洲族は古来騎馬・射猟を得意とし、清朝建国後はこれを満洲の根本とみなして狩猟や軍事に活用するのみならず、競技化した[82]。ヌルハチは、その趣味が弓の試合であり、すぐれた射手と技を競って負けなかったという弓の名手であったし、ホンタイジも飛翔する一羽の鳥をただの一矢で射落とすほどの腕前であった[82]。競技種目としては歩射と騎射があり、弓術は、近代に至るまで満洲民族の伝統として受け継がれた[82]

スケートも満洲族が得意とするスポーツで、これまた初期の生業や軍事活動と結びついていた[82]。冬季における酷寒の東北部では河川湖沼が凍結して天然のスケートリンクとなった[82]。スケートはスポーツであると同時に軍事訓練でもあり、乾隆帝はこれを「国俗」と称した[82]。氷上で行われた競技としては他に、王などのリーダーが侍衛を率いて鞠(ボール)を蹴りながら氷上を走り、次いで諸貴族・官員の妻女たちが氷上で競争し、先に終点に着いたものを勝ちとする「踢行頭」などがあった[82]

満洲人たちはまた、相撲(角觝)をことのほか愛好し、それは満洲語で「布庫(プク)」と称された[82]。すでに入関前の宮廷で弓試合や宴会の際に、相撲の実演が催されている[82]。ホンタイジの時代にモンゴルとの関係が深まると、朝貢に訪れたモンゴル族の力士たちはしばしば宮廷内で技を披露し、満洲族の力士と勝負した[82]。幼くして帝位に就き、権臣オボイの専横に苦しんだ康熙帝は若年の際、相撲好きと称して旗人より強壮な少年たちを選抜して密かに親衛隊をつくり、日々これを鍛錬させて、機が熟したときにオボイを逮捕、その腹心たちを一網打尽にして親政を開始したという逸話をもっている[35][82]


注釈

  1. ^ 2010年の人口調査では満族人口は10,387,958人であった[5]
  2. ^ 建州女真、「女直」は明側の呼称である。
  3. ^ 太祖ヌルハチの事績をまとめた『満洲実録』によれば地名「ヘトゥアラ」は「横岡」という意味である[10]
  4. ^ ヘトゥアラで生まれたヌルハチは、モンゴルのハルハ部と友好関係を結ぶことに成功し、1616年、同地で明朝からの独立とアイシン(後金)の建国、自身の即位を宣したという[12]
  5. ^ 靺鞨族の文化については、考古学的研究によってその多くが解明されてきている[14]
  6. ^ 女真文字による六字真言(六字大明呪)である。
  7. ^ 遼代の女真族のなかでもさほど有力とはいえない完顔部が金王朝を樹立させるにいたった原因は、砂金を産する河川流域を支配地に収めたことによると考えられる[15]
  8. ^ 現在、ロシア連邦の沿海州に住み、狩猟を主な生業としてきた少数民族ウデヘは、このうちの野人女直の末裔と考えられる[22]
  9. ^ 「バクシ」とは、書記官の意であるとも[24]、学者・博士の意であるともいわれる。
  10. ^ 1634年、後金軍はモンゴルの一大拠点のフフホトを占領し、ドルゴンらを派遣してリンダン・ハーンの息子を捜索させた[25]1635年、ドルゴンはモンゴル帝国最後の君主となったエジェイ・ハーンを降伏させ、彼をともなって都の瀋陽に帰還した[26]。エジェイは、「制誥之宝」と刻まれた大元伝国の璽をたずさえ、ホンタイジにこれを献上した[26]。元朝の皇帝権を象徴する印璽がホンタイジの手に入ったということは、彼が全中国の支配権を元から継承したことを意味していた[26]
  11. ^ これにより「満洲」の名が定着するが、東方世界を支配するとされる仏である文殊菩薩と満洲の語を結びつける説明については、当時のチベット仏教の指導者の発言を乾隆帝が利用したところから生じた俗説だという見解もある[9]。満州語の史書『満文原檔』はヌルハチによる国家建設を「漢人の国(ニカン=グルン)から東のかた日の浮かぶ海(日本海)に至るまでの、高麗国(ソルホ=グルン)以北、モンゴル国(モンゴ=グルン)以南のジュシェン語の国(グルン)をみな討ち従え尽した」と記すように女真人は自分たちの世界を言語によって周囲から区別される「ジュシェン国(女真国)」というまとまりとして理解していた[27]。ホンタイジは「われらがくにたみ(グルン)の名は元来マンジュ、ハダ・ウラ・イェヘ・ホイファであるぞ。それを理解しない者がジュシェンという。...これからはいずれの者もわれらの本来のマンジュという名で呼べ。ジュシェンと呼んだときは罪とする。」「くにたみの名をマンジュと言う。旗の諸王に千束させた属下(ジュシェン)を、その王の族下(ジュシェン)という。」(『満文原檔』)という勅令を下し、単なる金国の後継に留まらない新たな自意識を示した[28]
  12. ^ 満州人(族)は当時東北アジアに住んでいた様々な集団の複合・統合を経て形成されたものである。「南方ツングースを中心とする満洲族は女真族の末裔を母体とし、蒙古族、朝鮮族、錫伯族、ダウール(達斡爾)族を吸収し、長期の雑居を経て新しい共同体を形成、今日見られる独特の民族誌的複合を形成したものである」(畑中)[30]
  13. ^ 1793年初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニーはイギリス王ジョージ3世の派遣した乾隆帝の80歳を祝う使節団として熱河に赴き、三跪九叩頭の礼を拒否した(のちに清側が妥協して英国流に膝をつき皇帝の手に接吻することで事態を収拾した)ことで知られる[34]
  14. ^ 清朝の皇帝が皇帝であるためには、満洲人、モンゴル人、漢人の支配権を確立しなければならなかった[35]。モンゴル人に対しては大元伝国の玉璽を有して最後のハーンからその権利を譲られ、漢人に対しては大明の帝位を継承したとしてその支配権を主張できたのであるが、実のところ、肝心の満洲人に対しては本来独裁の権限はなく、部族長会議の議長にすぎない存在であり、当初は皇帝自身がその部族長会議で軍事・外交のリーダーとして選挙で選ばれた存在だった[35]
  15. ^ チーパオ(旗袍)は本来、清朝旗人社会の婦人のうち、冬の綿入れの形を普遍化したものであるが、現在のようなかたちで統一・普及するのは、中華民国成立以降のことである[36]。清朝では、支配者である旗人と一般漢人とは厳格に区別されていたため、漢人女性がチーパオを着用することは認められていなかった[36]。このことが逆に女性の憧れとなったのか、政治とは別次元として満洲民族の服が元になって「チャイナドレス」として独り歩きし、ボディコンシャスワンピースとして広く愛用されることになった[36]
  16. ^ 辮髪は、満洲族(女真族)に限らず、北アジア系諸民族のあいだに古くから広くみられる風習である[36]
  17. ^ ネルチンスク条約は、東アジア史上はじめてヨーロッパの一国と結んだ国際条約であった[39]
  18. ^ ニル(niru、「矢」の意)とは、八旗制において有事の際に兵士となる成年男子300人を供出しうる集団を指す[24]。清朝は、5ニルをジャラン(jalan、1,500人)とし、5ジャランをグサ(gūsa、25ニル、7,500人)として、1グサ(7,500人)をもって一旗とした[24][40]。「旗」は本籍の所在をもあらわしており、単なる兵制上の単位ではなく、旗人の基本的な帰属先を示す社会組織であった[24]
  19. ^ 北京条約はアロー戦争終結のためのイギリスフランスとの講和条約である。
  20. ^ 1931年満洲事変までに、数百万規模の人々が関内から移動したといわれている。
  21. ^ 太平天国では反清の意思として辮髪を廃止したが、清朝はこのような反政府勢力を「長髪賊」と呼んだ。
  22. ^ 愛新覚羅溥儀は、1917年7月、軍閥の指導者張勲によって13日間だけだが、帝位に就いたことがあった(張勲復辟)。
  23. ^ 満洲族に固有の言語(本来の満洲語)は「固有満洲語」と称された[49]
  24. ^ しかし、「中国的夢」を掲げる習近平政権に入ってからは、以前にも増していっそう抑圧的な少数民族政策がとられるようになっている[50]
  25. ^ クロテンの毛皮は冬の厳しい華北地方で人びとの耳当てとして大量の需要があったほか、明や朝鮮での奢侈の風潮からも人気があった[52]。オタネニンジン(朝鮮人参)は、上等なものだとに匹敵するといわれたほど高価であったが、これを採集するには夏の数か月、猛獣の多く棲む高山地帯で集団生活を送る必要があった[52]
  26. ^ 「ツングース」の名前の由来も、トルコ語のトングス(=ブタ)の訛ったものといわれている[20]
  27. ^ 明帝国は、対モンゴル政策の一環として女真族を利用する政策を採用し、衛所の制度を適用して各地の女真族の部族長に官職を授け、それを示す勅書印璽をあたえて、朝貢・馬市にかかわる特権の付与に便宜を図った[19]。これは、自給自足の難しい女真族の社会に権威利権をめぐる熾烈な争奪抗争を生むこととなって、結果的に女真族内に覇権闘争を生んだ[8][19]。明朝の政策の根底には女真族分断の意図もあったが、ヌルハチはこうした覇権闘争を勝ち抜いたうえで明の対抗勢力となるまでに勢力を拡大させたのであるから、長期的に考えれば明にとって皮肉な結果だったといえる[8][19]
  28. ^ ヌルハチはここを「打漁楼」と名付けた。
  29. ^ 清朝の北京入城は、概ね人民の歓迎を受けたが、辮髪の強制はこれに対する裏切り行為として受け止められた[57]
  30. ^ 清朝にあっては、明代には顕著だった後宮勢力を背景とする宦官の専権という現象はあまりみられなかった。
  31. ^ 漢族にあっては、同姓であっても同祖でなければ通婚は制限されないし、同姓同祖であっても五服親(高祖父を同じくする三従兄弟姉妹までの親族)の範囲を越えれば結婚は可能である[63]。満族にあっては、かつては禁忌とされた、同姓であるが同祖でない男女、同祖であるが五服親の範囲外にある男女の結婚がみられるようになったというものの、特に老人たちはそのことに否定的である[63]
  32. ^ 嫩江沿岸やアイグン(黒竜江省黒河市)周辺などの少数の集落では、満洲語が口頭語として用いられている[70]
  33. ^ 『満文老檔』文献の題名であり、内藤の命名による[71]
  34. ^ 無圏点文字と有圏点文字は明瞭に区別され、満洲文史料の年代を検討する際の重要な指標のひとつとなっている[66]
  35. ^ 赫哲族、ロシアでは「ナナイ」と称する。
  36. ^ 浮き橋のモチーフは、説話によっては、魚ではなくカメによってつくられる場合もある[80]

出典

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