満洲民族
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満洲族出身の著名人
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脚注
参考文献
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関連項目
注釈
- ^ 2010年の人口調査では満族人口は10,387,958人であった[5]。
- ^ 建州女真、「女直」は明側の呼称である。
- ^ 太祖ヌルハチの事績をまとめた『満洲実録』によれば地名「ヘトゥアラ」は「横岡」という意味である[10]。
- ^ ヘトゥアラで生まれたヌルハチは、モンゴルのハルハ部と友好関係を結ぶことに成功し、1616年、同地で明朝からの独立とアイシン(後金)の建国、自身の即位を宣したという[12]。
- ^ 靺鞨族の文化については、考古学的研究によってその多くが解明されてきている[14]。
- ^ 女真文字による六字真言(六字大明呪)である。
- ^ 遼代の女真族のなかでもさほど有力とはいえない完顔部が金王朝を樹立させるにいたった原因は、砂金を産する河川流域を支配地に収めたことによると考えられる[15]。
- ^ 現在、ロシア連邦の沿海州に住み、狩猟を主な生業としてきた少数民族ウデヘは、このうちの野人女直の末裔と考えられる[22]。
- ^ 「バクシ」とは、書記官の意であるとも[24]、学者・博士の意であるともいわれる。
- ^ 1634年、後金軍はモンゴルの一大拠点のフフホトを占領し、ドルゴンらを派遣してリンダン・ハーンの息子を捜索させた[25]。1635年、ドルゴンはモンゴル帝国最後の君主となったエジェイ・ハーンを降伏させ、彼をともなって都の瀋陽に帰還した[26]。エジェイは、「制誥之宝」と刻まれた大元伝国の璽をたずさえ、ホンタイジにこれを献上した[26]。元朝の皇帝権を象徴する印璽がホンタイジの手に入ったということは、彼が全中国の支配権を元から継承したことを意味していた[26]。
- ^ これにより「満洲」の名が定着するが、東方世界を支配するとされる仏である文殊菩薩と満洲の語を結びつける説明については、当時のチベット仏教の指導者の発言を乾隆帝が利用したところから生じた俗説だという見解もある[9]。満州語の史書『満文原檔』はヌルハチによる国家建設を「漢人の国(ニカン=グルン)から東のかた日の浮かぶ海(日本海)に至るまでの、高麗国(ソルホ=グルン)以北、モンゴル国(モンゴ=グルン)以南のジュシェン語の国(グルン)をみな討ち従え尽した」と記すように女真人は自分たちの世界を言語によって周囲から区別される「ジュシェン国(女真国)」というまとまりとして理解していた[27]。ホンタイジは「われらがくにたみ(グルン)の名は元来マンジュ、ハダ・ウラ・イェヘ・ホイファであるぞ。それを理解しない者がジュシェンという。...これからはいずれの者もわれらの本来のマンジュという名で呼べ。ジュシェンと呼んだときは罪とする。」「くにたみの名をマンジュと言う。旗の諸王に千束させた属下(ジュシェン)を、その王の族下(ジュシェン)という。」(『満文原檔』)という勅令を下し、単なる金国の後継に留まらない新たな自意識を示した[28]。
- ^ 満州人(族)は当時東北アジアに住んでいた様々な集団の複合・統合を経て形成されたものである。「南方ツングースを中心とする満洲族は女真族の末裔を母体とし、蒙古族、朝鮮族、錫伯族、ダウール(達斡爾)族を吸収し、長期の雑居を経て新しい共同体を形成、今日見られる独特の民族誌的複合を形成したものである」(畑中)[30]。
- ^ 1793年、初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニーはイギリス王ジョージ3世の派遣した乾隆帝の80歳を祝う使節団として熱河に赴き、三跪九叩頭の礼を拒否した(のちに清側が妥協して英国流に膝をつき皇帝の手に接吻することで事態を収拾した)ことで知られる[34]。
- ^ 清朝の皇帝が皇帝であるためには、満洲人、モンゴル人、漢人の支配権を確立しなければならなかった[35]。モンゴル人に対しては大元伝国の玉璽を有して最後のハーンからその権利を譲られ、漢人に対しては大明の帝位を継承したとしてその支配権を主張できたのであるが、実のところ、肝心の満洲人に対しては本来独裁の権限はなく、部族長会議の議長にすぎない存在であり、当初は皇帝自身がその部族長会議で軍事・外交のリーダーとして選挙で選ばれた存在だった[35]。
- ^ チーパオ(旗袍)は本来、清朝旗人社会の婦人のうち、冬の綿入れの形を普遍化したものであるが、現在のようなかたちで統一・普及するのは、中華民国成立以降のことである[36]。清朝では、支配者である旗人と一般漢人とは厳格に区別されていたため、漢人女性がチーパオを着用することは認められていなかった[36]。このことが逆に女性の憧れとなったのか、政治とは別次元として満洲民族の服が元になって「チャイナドレス」として独り歩きし、ボディコンシャスなワンピースとして広く愛用されることになった[36]。
- ^ 辮髪は、満洲族(女真族)に限らず、北アジア系諸民族のあいだに古くから広くみられる風習である[36]。
- ^ ネルチンスク条約は、東アジア史上はじめてヨーロッパの一国と結んだ国際条約であった[39]。
- ^ ニル(niru、「矢」の意)とは、八旗制において有事の際に兵士となる成年男子300人を供出しうる集団を指す[24]。清朝は、5ニルをジャラン(jalan、1,500人)とし、5ジャランをグサ(gūsa、25ニル、7,500人)として、1グサ(7,500人)をもって一旗とした[24][40]。「旗」は本籍の所在をもあらわしており、単なる兵制上の単位ではなく、旗人の基本的な帰属先を示す社会組織であった[24]。
- ^ 北京条約はアロー戦争終結のためのイギリス・フランスとの講和条約である。
- ^ 1931年の満洲事変までに、数百万規模の人々が関内から移動したといわれている。
- ^ 太平天国では反清の意思として辮髪を廃止したが、清朝はこのような反政府勢力を「長髪賊」と呼んだ。
- ^ 愛新覚羅溥儀は、1917年7月、軍閥の指導者張勲によって13日間だけだが、帝位に就いたことがあった(張勲復辟)。
- ^ 満洲族に固有の言語(本来の満洲語)は「固有満洲語」と称された[49]。
- ^ しかし、「中国的夢」を掲げる習近平政権に入ってからは、以前にも増していっそう抑圧的な少数民族政策がとられるようになっている[50]。
- ^ クロテンの毛皮は冬の厳しい華北地方で人びとの耳当てとして大量の需要があったほか、明や朝鮮での奢侈の風潮からも人気があった[52]。オタネニンジン(朝鮮人参)は、上等なものだと銀に匹敵するといわれたほど高価であったが、これを採集するには夏の数か月、猛獣の多く棲む高山地帯で集団生活を送る必要があった[52]。
- ^ 「ツングース」の名前の由来も、トルコ語のトングス(=ブタ)の訛ったものといわれている[20]。
- ^ 明帝国は、対モンゴル政策の一環として女真族を利用する政策を採用し、衛所の制度を適用して各地の女真族の部族長に官職を授け、それを示す勅書・印璽をあたえて、朝貢・馬市にかかわる特権の付与に便宜を図った[19]。これは、自給自足の難しい女真族の社会に権威と利権をめぐる熾烈な争奪抗争を生むこととなって、結果的に女真族内に覇権闘争を生んだ[8][19]。明朝の政策の根底には女真族分断の意図もあったが、ヌルハチはこうした覇権闘争を勝ち抜いたうえで明の対抗勢力となるまでに勢力を拡大させたのであるから、長期的に考えれば明にとって皮肉な結果だったといえる[8][19]。
- ^ ヌルハチはここを「打漁楼」と名付けた。
- ^ 清朝の北京入城は、概ね人民の歓迎を受けたが、辮髪の強制はこれに対する裏切り行為として受け止められた[57]。
- ^ 清朝にあっては、明代には顕著だった後宮勢力を背景とする宦官の専権という現象はあまりみられなかった。
- ^ 漢族にあっては、同姓であっても同祖でなければ通婚は制限されないし、同姓同祖であっても五服親(高祖父を同じくする三従兄弟姉妹までの親族)の範囲を越えれば結婚は可能である[63]。満族にあっては、かつては禁忌とされた、同姓であるが同祖でない男女、同祖であるが五服親の範囲外にある男女の結婚がみられるようになったというものの、特に老人たちはそのことに否定的である[63]。
- ^ 嫩江沿岸やアイグン(黒竜江省黒河市)周辺などの少数の集落では、満洲語が口頭語として用いられている[70]。
- ^ 『満文老檔』文献の題名であり、内藤の命名による[71]。
- ^ 無圏点文字と有圏点文字は明瞭に区別され、満洲文史料の年代を検討する際の重要な指標のひとつとなっている[66]。
- ^ 赫哲族、ロシアでは「ナナイ」と称する。
- ^ 浮き橋のモチーフは、説話によっては、魚ではなくカメによってつくられる場合もある[80]。
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