長谷場純孝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/02 05:25 UTC 版)
経歴
薩摩国日置郡串木野村(現在の鹿児島県いちき串木野市)出身。父は鹿児島藩の郷士。1871年に東京に上京。1872年、警視庁の羅卒(巡査)となり、少警部に進む。1877年、故郷へ戻って私学校に入り、西南戦争には西郷隆盛方として参加し、懲役囚(国事犯として懲役3年)となる。1879年「癈疾ニ付放免」され出獄[2]。
出獄後より国会開設運動に携わり、1885年から1887年まで鹿児島県会議員、1887年から1890年まで鹿児島の4郡の郡長となる[3]。1890年の第1回衆議院議員総選挙で鹿児島県から当選し、以降11回連続当選。のち政友会設立に関わる。1908年から1911年にかけて1度目の衆議院議長を務めた。また、1911年の第2次西園寺内閣で文部大臣を務めるが、翌年病にかかり辞任。1914年、2度目の衆議院議長に就任し、シーメンス事件での混乱の中、議会の運営に当たるが、就任わずか9日で動脈瘤破裂のため急死する[4]。
栄典
- 位階
- 勲章
脚注
関連項目
議会 | ||
---|---|---|
先代 杉田定一 大岡育造 |
衆議院議長 第14代:1908年 - 1911年 第17代:1914年 |
次代 大岡育造 奥繁三郎 |
公職 | ||
先代 小松原英太郎 |
文部大臣 第22代:1911年 - 1912年 |
次代 牧野伸顕(臨時代理) |
固有名詞の分類
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