妻木頼黄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/13 14:24 UTC 版)
妻木頼黄 | |
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生誕 |
1859年2月22日 (旧暦安政6年1月20日) 日本 江戸赤坂 |
死没 |
1916年10月10日(57歳没) (大正5年10月10日) 日本 東京府東京市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | コーネル大学 |
職業 | 建築家 |
建築物 |
東京府庁舎 横浜正金銀行本店 日本橋 |
経歴
1859年、上郷妻木氏7代頼幸の次男で、上総妻木家を継いで11代当主となった、旗本・妻木源三郎頼功(御使番衆、1千石[2])の長男として江戸に生まれる。幼名、久之丞。父の頼功は、1862年長崎表立合御用として赴任するが現地で没した為、3歳で12代当主となった。明治9年(1876年)家屋敷を売却し渡米するが、日本で学ぶよう諭され帰国。1878年、工部大学校造家学科(のちの東大建築学科)に入学、ジョサイア・コンドルに学ぶ。辰野金吾の後輩に当たる。1882年、卒業1年前に中途退学し、アメリカ留学。コーネル大学建築学科3年に編入、同大学で学士号を取得した。 卒業ののち、ニューヨークのロバートソン事務所で修行。1885年帰国。
帰国後は東京府に勤務。1886年、議院(国会議事堂)建設のための組織である(内閣)臨時建築局に勤めた。官庁集中計画の一環で、議院の研究のため渡辺譲や河合浩蔵、職人らとともにドイツに留学した。1888年、帰国。結局、議院建築は木造の仮建築で建てられることになり、本建築の建設は見送られた。
大蔵省で港湾、税関、煙草・塩専売などの施設建設に当たった。1894年日清戦争の際、大本営の置かれた広島に臨時議院(広島臨時仮議事堂)を建設することが決まると、短期日で完成させ、この功績で叙勲を受けた。また、奈良の東大寺大仏殿修復にも関わった。
1901年欧米を視察、同年工学博士号を取得。
日露戦争後、桂内閣のもとで再び議院建築の機運が盛り上がるが、辰野金吾らは公開コンペ開催を要求し、議院の設計を進めていた妻木らを批判した。桂内閣が大正政変のため倒れた後、議院建築の計画も延期となり、妻木は官職を辞任。病気がちになり、1916年死去。
栄典
- 1896年(明治29年)6月15日 - 勲六等単光旭日章[3]
- 1900年(明治33年)6月30日 - 勲五等瑞宝章[4]
- 1904年(明治37年)12月27日 - 勲四等瑞宝章[5]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等瑞宝章[6]
- 1913年(大正2年)5月20日 - 正四位[7]
- 1916年(大正5年)10月10日 - 勲二等瑞宝章[8]
作品
建造物名 | 年 | 所在地 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|---|
東京府庁 | 1894年(明治27年) | 東京都港区 | 現存せず | |
(現・半田赤レンガ建物) |
旧丸三麦酒 醸造工場1898年(明治31年) | 愛知県半田市 | 登録有形文化財 | 実施設計のみ。カブトビール工場 → 日本食品化工 半田工場 → 現・半田赤レンガ建物 |
(現・千葉トヨペット) |
旧日本勧業銀行本店1899年(明治32年) | 千葉市美浜区 | 登録有形文化財 | 担当武田五一 |
横浜正金銀行本店 (現・神奈川県立歴史博物館) |
旧1904年(明治37年) | 神奈川県横浜市 | 重要文化財 | 担当遠藤於莵 |
旧醸造試験場第一工場 | 1904年(明治37年) | 東京都北区 | 重要文化財 | |
井伊直弼像台座 | 1909年(明治42年) | 掃部山公園 |
神奈川県横浜市||
旧横浜正金銀行大連支店 (現・中国銀行大連分行) |
1909年(明治42年) | 中国 | 担当大田毅 | |
横浜正金銀行北京支店 | 旧1910年(明治43年) | 中国 | ||
(現・横浜赤レンガ倉庫) |
旧横浜新港埠頭倉庫1911年(明治44年) | 神奈川県横浜市 | ||
日本橋 | 1911年(明治44年) | 東京都中央区 | 重要文化財 | 装飾意匠設計 |
内閣文庫庁舎 | 旧1911年(明治44年) | 愛知県犬山市 | 博物館明治村に移築、担当大熊喜邦 | |
日本赤十字社 | 1912年(大正元年) | 東京都港区 | 現存せず | |
拓殖大学恩賜記念講堂 | 1914年(大正3年) | 東京都八王子市 | 復元 | 2000年に拓殖大学恩賜記念館として復元 |
(現・山口県政資料館) |
旧山口県庁舎1914年(大正3年) | 山口県山口市 | 重要文化財 | 担当武田五一、大熊喜邦 |
脚注
妻木頼黄と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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