士官 大日本帝国海軍の士官

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士官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/12 02:32 UTC 版)

大日本帝国海軍の士官

基本的な階級

制度上は兵から下士官、准士官、士官と順次進級できる可能性がある陸軍と異なり、学歴至上主義の海軍では士官と学歴が無い下士官兵では全く別の階層だった。海軍士官と言っても職種と任用前の経歴により大別すると、正規の養成教育を受けた「士官」、商船学校出身や予備学生出身の「予備士官」、それと下士官兵から累進した「特務士官」に分けられていた。

その内、「士官」は戦闘要員を主体とする兵科士官(「将校」)と戦闘要員を支援する技術士官(「将校相当官」)に更に分けられた。兵科士官は海軍兵学校海軍機関学校で3年間教育を受けたあと、海軍少尉候補生に命ぜられ、練習艦隊の訓練、つづいて艦隊での実地勤務を経ると海軍少尉に任用されて、正式な兵科士官となって配属される。少尉、中尉の間は広く知識と経験を得させるため、甲板士官、砲術士、通信士など一通り何でもやらされるが、おおむね大尉に進級すると、各種術科学校(砲術、水雷、通信、航海、潜水、飛行)の高等科学生に入校して、特性に応じた教育を平時の場合は約1年間(太平洋戦争中は大幅に短縮)受けた。術科学校の高等科学生を卒業すると改めて勤務する軍艦において、教育された各科の科長、つまり砲術長、水雷長、通信長、航海長、内務(1943年12月に新設。それまでの運用科、工作科と機関科の電気部門、補助機械部門を統合)長についた[5]。技術科士官は造船科、造機科(艦船のエンジン)、造兵科(兵器)、水路科の4科の士官を総括していう。大学令による大学(主として東京帝国大学)の工学部、理学部在学中の学生から試験で採用、海軍学生または海軍委託学生として毎月一定の手当てを支給。卒業と同時に造船中尉、造兵中尉に任官する。1942年(昭和17年)11月、前述の4科は技術科に一本化、官職名は海軍技術中尉になった。

このほか、主計科・軍医科薬剤科歯科医科法務科看護科軍楽科も「将校」でなく「将校相当官」である(時期により異なる)。

兵科士官のみが「将校」とし、その他の科に属する士官は「将校相当官」とし、指揮権はなく、昇進も中将どまりである。なお、1904年(明治37年)以降は、東京高等商船学校や神戸高等商船学校の生徒について入校即日に海軍予備生徒(海軍予備員)に任じ、卒業後は予備少尉あるいは予備機関少尉に任官させた。高等商船学校生徒は、在校中、海軍砲術学校に6ヶ月間入校し初級予備士官としての教育を受けた。予備士官は、制度上は最終的に大佐まで昇進できるようになっていた。これらは海軍の兵科・機関科の関係の変遷や階級呼称の変遷に伴い、それに準じて制度が改正された。

海軍士官の階級・兵科将校(兵科将校という表現は厳密には1920年-1942年(大正9年-昭和17年)のみ用いられている)の場合:大将-中将-少将-大佐-中佐-少佐-大尉-中尉-少尉-少尉候補生

海軍において陸軍と異なり、大佐を“だいさ”、大尉を“だいい”と呼んでいた。ただし、大将は陸軍と同じ“たいしょう”であった。大将のみ“たいしょう”と読む理由は、司令官たる大佐(本来は少将ポストだが今後昇任予定、もしくは特例による大佐)が座乗する旗艦については少将旗ではなく代将旗だいしょうき)を掲揚するので、これと大将とを混同しないようにするためである。

なお、近代海軍の基本となったイギリス海軍には少佐少尉の階級が無く、大佐Captain)・中佐Commander)・大尉Lieutenant)・中尉Sublieutenant)の4階級制度が基本となっており、階級章の袖章の線も大佐が4条線となり以下1条ずつ減ぜられることとなっていた(その後少佐(Lieutenant Commander)の階級は作られたが、少尉に当たる階級は現在に至るも存在しない)。それに倣い、日本海軍でも、1886年(明治19年)7月12日には海軍中佐(奏任官2等)・海軍中尉(奏任官5等)が、それぞれ海軍大佐(奏任官1等及び2等)・海軍大尉(奏任官4等及び5等)に統合された(用語の問題で少佐、少尉でなく中佐、中尉が省略された)が、1897年(明治30年)9月16日に再び分離して置かれた。

機関科

明治初期は、直接戦闘に従事する高等武官(海軍兵学校出身者が中心)のみを将校として、それ以外(機関官を含む)は乗組文官であった。1872年(明治5年)に機関官などが武官に転換して士官となる。1906年(明治39年)の「明治39年1月26日勅令第9号」により、機関官の階級呼称を兵科のそれにならう(機関総監・機関大監・機関中監・機関少監・大機関士・中機関士・少機関士を、機関中将・機関少将・機関大佐・機関中佐・機関少佐・機関大尉・機関中尉・機関少尉と改める)。

1915年、大正4年12月2日勅令第216号により、機関官が機関将校(将校とは異なる区分)と改められる(この時点では将校・機関将校の2種が置かれる)。 1920年(大正9年)に大正8年9月22日勅令第427号により「機関将校」及び「予備機関将校」が、「将校」に統合されて「将校」(機関科)及び「予備将校」(機関科)となる(機関科将校)。 1924年(大正13年)に少将以上の兵科・機関科の区別を廃止する。 1942年(昭和17年)に将校の兵科・機関科の区別を廃止する。

長らく、戦闘に直接従事する高等武官と、機関科に属する士官とを区別していたのは、有事の際に指揮権継承の優先権を軍令承行令に基いて、戦闘指揮の教育を受けている海軍兵学校出身者に与えるためであった。

特務士官

軍艦など高度な科学技術を用いて設計、製造、配備、操作、運用、整備される武器、装備品や機関を取り扱うため、海軍の下士官兵はそれら兵器類の取り扱いに習熟していなければならない。准士官の兵曹長が、砲術科、水雷科など各科での実務面のリーダーである掌砲長、信号長、電信長、掌整備長などになっていた[6] が、下士官からの叩き上げでは兵曹長より上には名誉進級か戦死に伴った昇進の場合を除いて進級できなかった。

日露戦争が終わると海軍は、棍棒外交方針により巨大な海軍力を建設しつつ太平洋へも進出を企てているアメリカを仮想敵国に定め、1907年(明治40年)に初度決定された帝国国防方針を元にした大建艦計画の一環として、1915年(大正4年)から八四艦隊案の予算化整備が始まる。増加する新鋭艦艇へいずれ下士官兵が多数必要となるが、要員の熟練度を上げる養成は短期間では不可能だった。それで下士官兵が習熟すべき実務に熟達している兵曹長をそのまま退役させるのではなく、陸軍にはない「特務士官」という独自の官階を新たに作って移し現役定限年齢も50歳に延ばして海軍に留めておこうとした。

特務士官は、実際は海軍兵学校を頂点とするエリート意識がアイデンティティである海軍の学閥偏重主義、学歴至上主義のため、叩き上げの優秀なエキスパートであっても将校とはされず、正規の士官より下位とされた[7]ため、時に『スペ公』という蔑称で呼ばれ、大田正一のように自身の意見が聞き入れられない事に不満を抱く者もいた。

軍令承行令での有事における指揮権の委譲では階級に関係なく

  1. 兵科将校
  2. 機関科将校
  3. 兵科予備士官
  4. 機関科予備士官
  5. 兵科特務士官
  6. 機関科特務士官
  7. 主計科士官
  8. 主計科予備士官
  9. 軍医科士官
  10. 薬剤科士官
  11. 歯科医科士官

の順であった。

制度の変遷

1897年(明治30年)、明治30年9月16日勅令第310号の海軍武官官階表では特務士官の分類はなく、士官(後世の尉官の意味)として下士出身者が任じられる准士官に、海軍兵曹長、海軍軍楽長、海軍船匠長、海軍機関兵曹長、海軍看護長、海軍筆記長 が高等官(奏任官:少尉相当官)として置かれる。

1915年(大正4年)、大正4年12月2日勅令第216号別表の海軍武官官階表では、海軍兵曹長、海軍機関兵曹長、海軍軍楽長、海軍船匠長、海軍看護長、海軍筆記長 の官階を准士官から、新設した特務士官に変更。階級の種類としては明治30年9月16日勅令第310号と同じであるが、海軍機関兵曹長の並びの順位が上昇している。

1920年(大正9年)、大正9年1月15日勅令第10号により次のように改称、海軍兵曹長 → 海軍特務少尉、海軍機関兵曹長 → 海軍機関特務少尉、海軍軍楽長 → 海軍軍楽特務少尉、海軍船匠長 → 海軍船匠特務少尉、海軍看護長 → 海軍看護特務少尉、海軍筆記長 → 海軍主計特務少尉、海軍予備兵曹長 → 海軍予備特務少尉、海軍予備機関兵曹長 → 海軍予備機関特務少尉。
同年4月1日、特務士官で最も上の階級を大尉相当官に改め、特務大尉と特務中尉を新設。

1942年(昭和17年)11月1日、特務士官の階級名から「特務」との呼称が削除され、特務大尉 → 大尉、特務中尉 → 中尉、特務少尉 → 少尉 と改められたが、実際は海軍廃止まで特務士官制度は存続し必要に応じて「特務士官たる~尉」と区別されていた。

日本海軍の特務士官及び准士官の階級呼称の変遷
官階 1897年(明治30年)

1915年(大正4年)
1915年(大正4年)

1920年(大正9年)
1920年(大正9年)

1942年(昭和17年)
1942年(昭和17年)

1945年(昭和20年)
特務士官
(奏任官四等)
    特務大尉 大尉
特務士官
(奏任官五等)
    特務中尉 中尉
特務士官
(奏任官六等)
  兵曹長 特務少尉 少尉
准士官
(奏任官六等)
兵曹長      
准士官
(判任官一等)
上等兵曹 上等兵曹 兵曹長 兵曹長

特選制度

兵曹長新設後、特選により士官たる中尉・機関中尉に進級できる道が開かれた。1900年(明治33年)に初めての中尉が誕生している。しかし、名誉進級か戦死に伴った昇進であり、中尉として勤務できたものはいなかった。1920年(大正9年)の大改正までに昇進できたものも約100名程度にとどまっている。大改正以後は特務中尉・大尉の階級が新設されたため、特務士官として上位に進級できるようになったため、大正年間には特選任用されたものは出ていない。1927年(昭和2年)になり主計特務大尉から士官たる主計少佐に昇進したものが現れた。当初は、予備役編入寸前に特進する名誉少佐であったが、1937年(昭和12年)に至り、現役中に昇進する者がでてきた。海軍消滅までに、戦死者を含め各科約1800名が少佐に昇進している。また、1942年(昭和17年)に、兵科2名、機関科1名の現役中佐への昇進者がでた。

1942年(昭和17年)に、飛行予科練習生出身者(操縦練習生・偵察練習生出身者を含む)に限り特務士官たる大尉から士官たる大尉への任用制度を創設。その後、1945年(昭和20年)に特務士官たる中尉、少尉から士官たる中尉、少尉に任用できるよう制度が拡充された。しかし適用をうけられたのは大尉への任用のみで10名に満たない。戦後の自衛隊では旧日本軍の予科練制度を航空学生として引き継いでいるが特務士官制度は廃止したため、防大や一般大学の卒業者との区別なく幹部候補生学校で教育を受け幹部となる。ただし、一般幹部とは昇進のスピードが違うなどのキャリアパスに格差が残っている。


  1. ^ 内閣 (1886年3月9日). “御署名原本・明治十九年・勅令第四号・陸軍武官官等表改正 (Ref.A03020000800)”. JACAR (国立公文書館アジア歴史資料センター). 2018年4月1日閲覧。
  2. ^ 内閣 (1937年2月12日). “御署名原本・昭和十二年・勅令第十二号・明治三十五年勅令第十一号(陸軍武官官等表)改正 (Ref.A03022080400)”. JACAR (国立公文書館アジア歴史資料センター). 2018年4月1日閲覧。
  3. ^ 内閣 (1919年9月22日). “御署名原本・大正八年・勅令第四百二十七号・大正四年勅令第二百十六号(海軍武官官階ノ件)中改正 (Ref.A03021216700)”. JACAR (国立公文書館アジア歴史資料センター). 2018年4月1日閲覧。
  4. ^ 戦時下の歯科医学教育 第2編 軍医学校と歯科委託生およ び歯科医将校制度と戦線での歯科医師:歯科学報, 120(2): 119-156 (PDF)”. 東京歯科大学. 2022年3月7日閲覧。
  5. ^ 歴史群像シリーズ[図説]日本海軍入門(学習研究社、2007年)187頁
  6. ^ 歴史群像シリーズ[図説]日本海軍入門(学習研究社、2007年)189頁
  7. ^ 別冊歴史読本26 日本の軍隊(新人物往来社、2008年)14頁






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