佐藤義則 佐藤義則の概要

佐藤義則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/06 00:56 UTC 版)

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佐藤 義則
東京ドームにて(2018年)
基本情報
国籍 日本
出身地 北海道奥尻郡奥尻町
生年月日 (1954-09-11) 1954年9月11日(65歳)
身長
体重
181 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト1位
初出場 1977年5月11日
最終出場 1998年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

経歴

アマチュア時代

奥尻島出身。奥尻中学校卒業後、函館有斗高等学校に進学。エースとして1972年春季北海道大会決勝に進み、苫小牧工の工藤敏博(法大)と投げ合い完封勝利。同年夏の甲子園南北海道予選も決勝に進出するが、今度は苫小牧工に0-2で惜敗し甲子園出場を逸する。卒業後は日本大学に進学。当時の日本大学は低迷期にあり、東都大学野球リーグでは、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。しかし1976年秋季リーグでは8勝4敗の好成績をあげ、シーズン78奪三振(東都大学野球リーグでは円子宏の83奪三振に次ぐ当時第2位)を記録した。また同年の第5回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。一部リーグ通算62試合登板、22勝21敗、防御率2.48、242奪三振。大学同期には和泉貴樹(日立製作所-日本大学監督)らがいる。同年秋のドラフト会議阪急ブレーブスの1位指名を受け入団した。

プロ時代

1977年に7勝を挙げて新人王に選出された。この年の日本シリーズにも登板する。

1978年には初めてオールスターゲームに出場した。シーズンでも13勝を記録したが、ヤクルトスワローズとの日本シリーズではベンチ入りするも故障のため登板がなかった。山口高志の故障離脱もあって山田久志今井雄太郎の負担を増すこととなった。

1981年には腰痛のため一軍登板がなく、一時期任意引退扱いとなった。

1982年リリーフ投手として復活。

1984年から先発投手に復帰した。

1985年は21勝で最多勝利のタイトルを獲得。この年の防御率はパ・リーグ10位の4.29であり、これは最多勝利を受賞した投手としては1リーグ時代及びセ・リーグ側の受賞者全員を含めた中でも歴代で最も悪い数字である(2018年時点)。 また、彼の後にパ・リーグで20勝以上を挙げる投手は、2003年斉藤和巳まで現れなかった。

1986年最優秀防御率のタイトルを獲得した。

1987年はそれまで12年連続で開幕投手を務めていた山田久志に代わってプロ入り11年目で初の開幕投手を務めた。しかし、このシーズンはわずか7勝に終わっている。1988年オフに阪急がオリックスとなった後も、山沖之彦星野伸之らとともに投手陣の中心として先発の一角を担った。

1989年、開幕戦の対近鉄戦に登板し完封勝利を挙げると好調を維持し6連勝を飾り6月終了の時点で8勝2敗と首位のチームを引っ張る。しかし、7月以降全く勝てなくなってしまい背信の投球から途中リリーフに回るなどもしたが改善せず、8月13日の対西武戦では9回1点差で一死、一塁、二塁の場面でリリーフ登板するものの2四球で押し出し同点。更に次のバッターオレステス・デストラーデに逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれて敗戦投手になる。10月13日対ロッテこの試合に負けると優勝の可能性完全に無くなる試合でも先発として登板し4回までノーヒットピッチングだったが5回に突如崩れ敗戦し優勝を逃す。シーズンでは9勝13敗で7月以降では1勝11敗の成績であった。

1993年オールスターゲームに選出され、7月21日の第2戦に登板し2回4奪三振を記録した。たが、7月12日には出身地の奥尻島が北海道南西沖地震およびそれに伴う火災津波によって壊滅的被害を受けていた。また、この震災で叔母を亡くしており、すぐにでも故郷へ帰りたい気持ちをこらえての力投だった。

1994年オールスターゲームに選出され、7月20日の第2戦(ナゴヤ球場)で先発し、3回1失点の好投を見せた。なお、オリックスの投手がオールスターゲームに先発登板したのはこの年の佐藤以降では2019年の第2戦山岡泰輔が先発するまで25年も経っていた。この年以降オリックスの本拠地球場(大阪近鉄バファローズとの合併後京セラドーム大阪も含める)で開催されたオールスターゲームは2000年の第2戦(グリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)、2008年の第1戦(京セラドーム大阪)、2012年の第1戦(京セラドーム大阪)、2018年の第1戦(京セラドーム大阪)でそれぞれ開催されたが、パ・リーグはいずれもオリックス以外の投手が先発している[1]

1995年には、自身の所属するオリックス・ブルーウェーブの本拠地である神戸が阪神・淡路大震災に襲われ、一時は試合開催も危ぶまれる大被害を受けた。この年は8月26日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)で当時NPB史上最年長[2]、NPB史上初となる40歳以上でのノーヒットノーランを達成。チームは「がんばろうKOBE」を合言葉に一丸となって結束し、最終的には1984年以来、11年ぶりのリーグ優勝を果たす。ヤクルトスワローズと対戦した日本シリーズでは経験を買われて第1戦に登板したが、敗戦投手となった。

1996年頃から衰えが顕著になり、同年チームはパ・リーグ連覇を果たしたものの、日本シリーズでも登板機会が与えられなかった。

1998年シーズンを最後に、44歳で現役引退した。

落差の大きな独特の変化球は「ヨシボール」と呼ばれた。このボールは、指が短くてフォークボールが投げられない佐藤が「人差し指と中指で挟めないなら親指と人差し指で挟もう」という考えで編み出したものである。

また、時速140km/h台の速球を引退まで投げ続けることができた。現役時代、戎信行を指導した[3]

引退後

1999年、オリックスの二軍投手コーチに就任した。出身地の奥尻島では、現役時代の背番号にちなんで、1999年11月11日に「佐藤義則野球展示室」を開設した。2000年限りでオリックスを退団した。2001年には、J SPORTS野球解説者デイリースポーツの野球評論家を務めた。

2002年から2004年まで、阪神タイガースで一軍投手コーチを担当。井川慶を育て[3]、サイドに転向した吉野誠を鍛え勝利の方程式の一員にした。[4]また、ジェフ・ウィリアムスを抑えに起用した。2003年は18年ぶりのセントラル・リーグ優勝に貢献した。2005年北海道日本ハムファイターズの二軍投手コーチに就任。武田久を指導し[3]ダルビッシュ有を育てた[5]。翌2006年には、一軍投手コーチとして25年ぶりのリーグ優勝と、44年ぶりの日本一に貢献。2007年は球団初の連覇に貢献した[6]。同年日本シリーズ終了後の11月3日に来季契約しないことを通告された。佐藤は「いまさら言われても。(ヒルマン監督)本人だけ喜んでそれでいいのか、球団は謝っていたけど。1年契約だからずっとは考えていないけど、時期が悪い。就職活動ができないよ。誠意がないよな。前もって決まっているなら言ってほしかったな。(球団が他球団への就職先を)探すのはできないと言っていた」と監督のトレイ・ヒルマンとフロントを批判した[7]

2007年オフに、プロ野球マスターズリーグ札幌アンビシャスへ加入。また、株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約を結んだ。2008年には、札幌テレビSTVラジオサンテレビ・J SPORTSで解説者として活動した後に、2009年から2014年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチに就任した。田中将大を育成した[3]

2010年12月7日に、野球殿堂入り候補者名簿(プレーヤー部門)へ掲載[8]2013年[9]は楽天のコーチとしてヘッドコーチ格の立場となり、球団初のパ・リーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献した。

2014年には、5月26日に監督の星野仙一が持病の腰痛で休養したため、星野に代わって当日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)を指揮した。(試合は1対4で敗戦)[10]。その後の診断で星野が腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靭帯骨化症を発症していることが判明したため、楽天球団では翌5月27日に、星野の休養と佐藤の監督代行就任を発表した[11]。翌5月28日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)では、監督代行として4対0で初勝利[12]。7月2日、球団は二軍監督の大久保博元を一軍監督代行とすることを発表。佐藤は一軍投手コーチに専念することになった[13]10月14日に来季の契約を結ばないことが発表された[14]。同年11月8日、福岡ソフトバンクホークス一軍投手コーチに就任することが発表された[15]武田翔太にヨシボールを教え[16]、武田を一人前に育て上げた[17]。チーム防御率は1位[18]、チームの2年連続リーグ優勝、日本一に貢献した。2017年11月5日に退団[19]。2018年シーズンより、4年ぶりに東北楽天ゴールデンイーグルス一軍投手コーチに復帰する。6月16日、監督・梨田昌孝の辞任に伴い、ベンチ担当からブルペン担当に配置転換された。2019年は、二軍投手テクニカルコーチを務め、同年10月9日に契約満了に伴い、2020シーズンのコーチ契約を行わない事が発表された[20]

2020年からは12年振りにデイリースポーツ[21]の野球評論家と野球解説者(現段階では所属局未定)に復帰する。

指導者としての特徴・人物

愛称は「ヨシ」。楽天への入団が決まった直後には、日本ハム時代の教え子であるダルビッシュ有が、当時楽天に在籍していた田中将大に対して電話で「ヨシさん(佐藤)の言うことは間違いない」というアドバイスを送った[22]。より速い球を投げられるようダルビッシュのフォームを改良、上半身に負担のかかる田中のフォームを改造し、エースへと育てた。長所を消さず、個々に適したフォームを伝授する指導には定評がある[23]星野仙一からは「日本一の投手コーチ」と言わしめた[24]。投手コーチとして阪神、日本ハム、楽天、ソフトバンクの4球団で優勝していることから優勝請負人と言われている[17]




  1. ^ パ・リーグの先発投手は2000年第2戦は当時西武松坂大輔、2008年の第1戦は当時北海道日本ハムファイターズダルビッシュ有、2012年の第1戦は日本ハムの斎藤佑樹、2018年の第1戦は当時西武の菊池雄星である。
  2. ^ 2006年に中日の山本昌が更新
  3. ^ a b c d “プロフェッショナル 仕事の流儀 「まっすぐ戦う勇気を持て 投手コーチ・佐藤義則」”. goo. (2012年3月27日). http://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/10934/559773/ 2012年4月23日閲覧。 
  4. ^ “ソフトバンク、ポスト森福絞られた 飯田か嘉弥真”. 日刊スポーツ. (2017年3月14日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1792012.html 2017年7月3日閲覧。 
  5. ^ ダルビッシュ、マー君を育てた佐藤義則投手コーチが語る「肩を下げて投げる」理由とは
  6. ^ 楽天、投手コーチに佐藤義則氏招聘 今月中にも交渉 サンケイスポーツ2008年9月19日
  7. ^ 日刊スポーツ2007年11月3日、日本ハム佐藤コーチが突然クビ連発に激怒
  8. ^ 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
  9. ^ 星野監督 来季は「ヘッド格は佐藤で仁村は野手のチーフ」 - スポーツニッポン
  10. ^ “星野監督 腰痛で休養、歩行困難 佐藤投手コーチが代行”. スポーツニッポン. (2014年5月26日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/05/26/kiji/K20140526008240070.html 2014年5月26日閲覧。 
  11. ^ “星野仙一監督 休養のお知らせ”. 東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト. (2014年5月27日). http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/4216.html 2014年5月27日閲覧。 
  12. ^ 佐藤監督代行が初白星 観戦三木谷オーナー「監督も安心すると思う」スポーツニッポン2014年5月28日配信
  13. ^ “監督代行・コーチ人事に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト. (2014年7月2日). http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/4324.html 2014年7月2日閲覧。 
  14. ^ 来季のコーチ契約に関して楽天球団公式サイト2014年10月14日配信
  15. ^ ソフトB来季コーチングスタッフを発表”. 日刊スポーツ (2014年11月8日). 2014年11月8日閲覧。
  16. ^ ソフトバンク・武田2度目完封 新球「ヨシボール」冴え10K
  17. ^ a b 【優勝請負人コーチ独占手記】 サンケイスポーツ
  18. ^ 2015年度 パシフィック・リーグ チーム投手成績
  19. ^ コーチングスタッフの退団について
  20. ^ コーチ契約に関して 楽天公式サイト、2019年10月9日
  21. ^ ダル&マー育てた名伯楽…佐藤義則氏望む プロは「1軍で10年」活躍 - デイリースポーツ2020.01.15
  22. ^ 永谷脩『渡り鳥、佐藤義則を酔わせる投手とは?』 Sports Graphic Number 718号
  23. ^ ソフトB佐藤コーチ 一流育成で投手王国日刊スポーツ
  24. ^ 週刊現代2015年2月21日,P168


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