若松茂樹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 21:19 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |   | 
   
| 出身地 | 広島県 | 
| 生年月日 | 1954年1月1日(68歳) | 
| 身長 体重  | 
     180 cm 75 kg  | 
   
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 | 
| ポジション | 内野手 | 
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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      選手歴
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      監督歴
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       この表について
        
       
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若松 茂樹(わかまつ しげき、1954年 - )は、広島県出身の元アマチュア野球選手である。ポジションは内野手(三塁手)。
来歴・人物
広島商業高では外野手、三塁手として活躍。1970年秋季中国大会に進むが、2回戦で岩国高に敗れる。同年12月には広島県高校選抜の一員としてフィリピン遠征に参加。翌1971年には夏の甲子園広島県予選準決勝に進むが、広陵高に敗退。甲子園への出場を果たすことができなかった。高校同期に二宮至[1]、荒谷稔(三菱重工広島)両外野手がいる。同年のドラフト会議で広島から10位指名されたが入団を拒否[2]。
東洋大学に進学。東都大学野球リーグでは1年上の松沼博久、市村則紀両投手を擁し三塁手として活躍。しかし駒大、中大に阻まれてリーグ初優勝には届かず、1973年秋季リーグから4季連続で2位に甘んじる。1975年には第11回アジア野球選手権大会日本代表となり、同年秋季リーグではベストナイン(三塁手)に選出された。
卒業後は三菱重工広島に入社[3]。1979年の都市対抗にチーム初出場。準決勝では逆転適時打を放ち日本楽器を降す。決勝では熊谷組に9回逆転勝ち、初優勝を飾った[4]。同大会の優秀選手賞を獲得、同年の社会人ベストナイン(三塁手)に選出された。1982年の都市対抗は日本鋼管福山に補強され3試合連続本塁打、決勝でも本塁打を放つが住友金属に敗退[4]。同大会の優秀選手賞を獲得。1988年の都市対抗ではNTT中国の補強選手として出場、10年連続出場選手として表彰された[4]。
現役引退後は三菱重工広島監督[3][5]として1996年の都市対抗で準優勝と健闘。2014年からは広島商業高校[6]で監督を務めた。
脚注
- ^ Company, The Asahi Shimbun. “校旗支えた1年生2人がレギュラーに 新チームで躍動 | バーチャル高校野球 | スポーツブル” (日本語). バーチャル高校野球. 2020年7月7日閲覧。
 - ^ “過去のドラフト 第7回(1971年) - ドラフト会議 : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com. 2020年6月25日閲覧。
 - ^ a b “広島)初陣を勝利で飾る 広島商・若松新監督”. 朝日新聞. (2016年8月23日) 2020年7月7日閲覧。
 - ^ a b c 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
 - ^ “広商野球クラブ: 監督就任”. club.hirosho-ob.jp. 2020年7月7日閲覧。
 - ^ “屈指の名門・広島商、常勝への第一歩 伝統と新しさ融合”. 朝日新聞. (2019年8月10日) 2020年7月7日閲覧。
 
関連項目
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