せんごく‐じだい【戦国時代】
戦国時代 (せんごくじだい)
戦国時代
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戦国時代(紀元前403年 - 前221年)
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「中国の青銅器」の記事における「戦国時代(紀元前403年 - 前221年)」の解説
紀元前453年に晋の領土は韓・魏・趙の3国に分裂し、これらに斉・楚・燕・秦を加えた七雄が覇権を争う時代となった。春秋時代と戦国時代の境目については、上記の前453年とする説と、韓・魏・趙が正式に諸侯に列せられた前403年とする説とがある。支配体制の変化とともに、産業・技術なども新たな発展段階に達し、中国は新たな時代に入っていた。春秋時代と戦国時代の交代期頃には鉄器が普及し、中国文明は鉄器の時代に入った。鉄製農具の使用・牛耕・大規模灌漑などの導入により、農業の生産性が向上し、商業や手工業も発達した。 戦国時代にも青銅器は引き続き製作されている。春秋時代後期に顕著となった器の装飾化、大型化の傾向はさらに強まり、金銀象嵌などの技法も用いられている。器種は酒器では尊・盉・壺、食器では鼎・鬲・甗などがあり、水器の鑑と匜、楽器の鐘・鎛・錞于などもみられる。この時代に特筆すべきことは青銅器の文様に人間が表現されるようになることである。殷代以来の中国青銅器の文様は、鬼神崇拝を背景とする実在または空想上の動物をモチーフとしたものが基本で、人間自身の姿を器の文様に表現することは長らくなかったが、春秋時代末期から戦国時代の壺や銅鏡には狩猟文など、人間自身の姿を文様化したものが現れた。 戦国時代を代表する青銅器遺品としては、曽侯乙墓(そうこういつぼ)と中山王墓の出土品が挙げられる。曽侯乙墓は湖北省随県で1977年に発掘されたもので、出土品の銘記から戦国時代前期、紀元前433年頃の墓であることがわかる。200点以上の青銅器が副葬され、その中には礼器・楽器のほかに日常生活品も含まれていた。注目すべき遺物は編鐘である。大小さまざまな大きさの鐘の組み合わせが全部で8セット(65箇)あり、総重量は2.5トンに達する。これらの鐘は七音階の音を出せるようになっており、現在でも演奏可能である。また、この墓から出土した尊と盤を組み合わせた礼器は、複雑にからみ合った龍の立体的な装飾で全面が覆われており、他に例をみない精巧なものである。当時の曽国は楚の属国であったが、そのような小国の王にしてこれだけの青銅器を墓に副葬できたことから、当時の青銅器製造の隆盛ぶりがわかる。 河北省平山県の中山王墓は1974年から1978年にかけて発掘された。その中の1号墓は「サク」という王の墓で、東西92メートル、南北110メートルの規模があり、紀元前310年の埋葬である(「サク」の漢字は、「興」の1画〜13画の下にワ冠、その下に「昔」)。すでに盗掘を受けていたが、それでも100点以上の青銅器が出土した。出土した青銅器のうち、礼器は文様のほとんどない地味なものが多いのに対し、燭台などの日常用品の方には金銀象嵌を駆使し、立体的な人物像を伴った精巧な作品が多い。なかでも「十五連燭台」や「銀首男子像燭台」(燭台を捧げる男子像の頭部が銀製のため、この名がある)などが特筆される。
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「戦国時代」の例文・使い方・用例・文例
- 戦国時代へタイムスリップしました
- 戦国時代は大名が各地で覇を唱え天下をとろうとしていた.
- 戦国時代
- 戦国時代には学問は寺院の境内に限られた
- 戦国時代には学問は寺内に限られた
- 中国の戦国時代において,陰陽五行を説く人
- 越という,中国の春秋戦国時代の国
- 戦国時代から江戸時代において,大名や幕府に使われた密偵
- 中国の戦国時代の九つの国
- 九鬼流という,戦国時代の海軍の流派
- 車裂きという,二両の車に片足ずつ縛りつけ,罪人の肢体を引き裂く,戦国時代の刑罰
- 戦国時代,普請や雑役にあたった人夫
- 室町,戦国時代,1郡または2郡の行政区画を支配した役職
- 戦国時代,水軍の大将の乗る軍船
- 奈良時代から戦国時代にかけての貴族と寺社の私有地
- 戦国時代,下級兵士が戦場で用いた笠
- 戦国時代の下級兵士
- 戦国時代の下級兵士の仲間
- 戦国時代に陣中で色々な合図に鳴らした鐘
- 中国春秋末期から戦国時代において,諸学者と諸学派のこと
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