1999年3月 - 6月 : NATOによる空爆
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「コソボ紛争」の記事における「1999年3月 - 6月 : NATOによる空爆」の解説
詳細は「アライド・フォース作戦」を参照 NATOによるセルビア空爆は、1999年の3月24日から6月11日まで続き、最大で1千機の航空機が、主にイタリアの基地から作戦に参加し、アドリア海などに展開された。巡航ミサイル・トマホークもまた大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射された。NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与をした。10週間にわたる衝突の中で、NATOの航空機による出撃は38,000回を超えた。ドイツ空軍は、第二次世界大戦後で初めて戦闘に参加した。 NATOによって目標と定められたのは、NATOのスポークスマンによると、コソボからセルビア人勢力を一掃し、平和維持軍を置き、難民を帰還させることであった。これは、ユーゴスラビア軍がコソボを去り、国際的な平和維持軍に置き換えられ、そして避難しているアルバニア人がコソボに帰還することを意味していた。作戦は初期の頃には、ユーゴスラビア空軍の防衛力を削ぎ、重要な戦略目標を押さえることにあった。これは、作戦初期においては十分な成功を収めることができなかった。それは、主に悪天候によって、ユーゴスラビア軍が容易に隠れられることによるものであった。NATOは、ミロシェヴィッチによる抵抗の意思を過小評価していた。ブリュッセルでは、大半が作戦は数日のうちに終わると予想していた。初期の爆撃は軽度に留まり、1991年の湾岸戦争におけるイラクの首都バグダードへの集中的な攻撃と比べれば、ほぼ誰もいないような場所への攻撃が加えられるのみであった。地上では、セルビア人による民族浄化作戦は激化し、空爆が始まってから1週間の間に300,000人のアルバニア人が隣接するアルバニアやマケドニア共和国に去り、その他にも多くがコソボ域内で強制移動された。4月の時点で、国際連合は、アルバニア人を中心に85万人が故郷を離れたと報告している。 NATO軍の作戦は次第に変化し、地上のユーゴスラビア軍の、戦車や大砲よりも大きいものを直接攻撃すること、並びに戦略爆撃を加えることに重点が置かれるようになった。この活動はしかし、政治によって強く束縛されたものであった。その攻撃対象は、NATOの加盟19箇国が同意できるものでなければならなかったためである。モンテネグロはNATOにより何度か空爆を受けたものの、モンテネグロの政治的指導者で反ミロシェヴィッチ派のミロ・ジュカノヴィッチの政治的不安定な状況を支援するため、まもなくモンテネグロへの攻撃は中止された。セルビアの民間・軍事双方によって用いられている施設は「デュアル=ユース・ターゲット」(dual-use target)と呼ばれ、攻撃対象となった。その中には、ドナウ川にかけられた橋や、工場、電力発電所、通信施設、そして、ミロシェヴィッチの妻・ミリャナ・マルコヴィッチが党首を務めるユーゴスラビア左翼連合(英語版)の本部、セルビア国営放送の塔なども含まれていた。これらへの攻撃の一部は、国際法、特にジュネーヴ条約に違反するのではないかとの見方もされた。NATOはしかし、これらの施設がユーゴスラビアの軍事を利するものであるとし、これらへの攻撃が合法であるとした。 5月の始めには、NATOの航空機がユーゴスラビア軍の輸送車隊と見誤ってアルバニア人難民の輸送車隊を攻撃し、50人ほどの死者を出した。NATOは5日後に誤りを認めたものの、セルビア人らは難民への攻撃を意図的なものであるとして非難した。5月7日、アメリカ空軍はB-2によって、ベオグラードの中国大使館をJDAM爆弾で攻撃し、3人の中国人ジャーナリストを殺害し、26人を負傷させた。これによって中国の世論は沸騰した。 当初、NATOは「ユーゴスラビアの施設への攻撃であった」と主張した。しかし、後に会議が開催され、アメリカ合衆国とNATOは誤りを認めて謝罪し、「CIAによる地図が古かったことによる「誤爆」であった」とした。この見解は、イギリスの新聞『オブザーバー』の記事(1999年11月28日)や、デンマークの新聞『Politiken』から疑問が提示された。それらの記事によると、「NATOは、中国の大使館が、ユーゴスラビア軍の通信信号の中継(「アーカン」と呼ばれる人物からセルビア人の暗殺部隊への情報通信)に使われていたことをアメリカ側が把握していたため、「意図的に」大使館を狙って攻撃したのではないか」と主張されている。また、訪中経験もあるセルビアの指導者ミロシェヴィッチは中国から「老米」と親しまれ、後に息子のマルコ・ミロシェビッチ(英語版)とその妻や子供が北京に逃亡を試みたようにミロシェビッチ一家と中国は親密な関係にあった。この「誤爆」によって、NATOと中国との間で関係が悪化し、北京にある西側諸国の大使館の周辺、NATO加盟国にゆかりのある企業(マクドナルドなど)では、店舗の破壊を伴う攻撃的なデモ活動が起こった。 なお、駐中国大使館を爆撃目標と指定したのは、アメリカ中央情報局(CIA)のウィリアム・J・ベネット中佐であり、「誤爆」の責任を取らされて、2000年にCIAを解雇されている。その後、2009年3月22日、ベネット中佐が妻とともに公園を散歩していた際に、窓のない白い不審車両が公園に入って行き、激しい物音がした後に自動車が走り去るという出来事が発生した。発見された時には、ベネット中佐は既に死亡しており、妻も重傷を負っていた。この殺人事件に関して、2009年4月にアメリカの外交誌『フォーリンポリシー』は、ベネット中佐の過去の経歴が関係している「暗殺」であったと報じている。 一方、米連邦捜査局(FBI)は、「事件とベネットの経歴を結びつける証拠は一切ない」と暗殺説を否定している。 また、コソボのドゥブラヴァ(Dubrava)収容所では、NATOによる空爆によって85人の死者が出たと言われる。ヒューマン・ライツ・ウォッチのコソボでの調査によると、5月21日に18人の囚人がNATOの空爆によって死亡し、また3日前の5月19日には3人の囚人と1人の守衛が死亡したとされた。 4月初めの時点において、衝突は終結には程遠いものと見られ、NATO諸国は陸上での作戦、つまりコソボへの進攻を真剣に考えなければならなかった。そして、コソボへの進攻をするならば、早急に準備する必要があった。冬が訪れる前に準備を整えなければならず、その際に予想される、ギリシャやアルバニアの港から、アルバニア北部やマケドニア共和国を経由してコソボに陸路で侵入する経路を確保するためには、するべきことが山積していた。アメリカのクリントン大統領は、アメリカ軍によるコソボ進攻を究極の選択と考えていた。代わりにクリントン大統領は、セルビア人の政府機能を弱体化させるため、CIAがコソボ解放軍を訓練することを決定した。同時に、フィンランドとロシアによるミロシェヴィッチ大統領の説得交渉が続けられた。ミロシェヴィッチ大統領は最終的に、NATOがコソボ紛争の解決に対して本気であり、一方的な解決をも辞さない姿勢であることを理解し、また反NATOの強い言辞を並べるロシアには、現実的にはセルビアを守る力がないことを理解した。微修正を加えた後、ミロシェヴィッチ大統領はフィンランド、ロシアの仲介による条件を受け入れ、NATO関与による国際連合主導でのコソボの平和維持軍の駐留に同意した。
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