1999年3月 - 6月 : NATOによる空爆とは? わかりやすく解説

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1999年3月 - 6月 : NATOによる空爆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:49 UTC 版)

コソボ紛争」の記事における「1999年3月 - 6月 : NATOによる空爆」の解説

詳細は「アライド・フォース作戦」を参照 NATOによるセルビア空爆は、1999年3月24日から6月11日まで続き最大で1千機の航空機が、主にイタリア基地から作戦参加しアドリア海などに展開された。巡航ミサイル・トマホークもまた大規模に用いられ航空機戦艦潜水艦などから発射された。NATO全ての加盟国作戦一定の関与をした。10週間にわたる衝突の中で、NATO航空機による出撃38,000回を超えたドイツ空軍は、第二次世界大戦後初め戦闘参加したNATOによって目標定められたのは、NATOスポークスマンによると、コソボからセルビア人勢力一掃し平和維持軍を置き、難民帰還させることであった。これは、ユーゴスラビア軍コソボ去り国際的な平和維持軍置き換えられ、そして避難しているアルバニア人コソボ帰還することを意味していた。作戦初期の頃には、ユーゴスラビア空軍防衛力削ぎ重要な戦略目標押さえることにあった。これは、作戦初期においては十分な成功を収めることができなかった。それは、主に悪天候によって、ユーゴスラビア軍容易に隠れられることによるものであったNATOは、ミロシェヴィッチによる抵抗意思過小評価していた。ブリュッセルでは、大半作戦数日のうちに終わると予想していた。初期爆撃軽度に留まり1991年湾岸戦争におけるイラク首都バグダードへの集中的な攻撃比べれば、ほぼ誰もないような場所へ攻撃加えられるのみであった地上では、セルビア人による民族浄化作戦激化し空爆始まってから1週間の間に300,000人のアルバニア人隣接するアルバニアマケドニア共和国去りその他に多くコソボ域内強制移動された。4月時点で、国際連合は、アルバニア人中心に85万人故郷離れた報告している。 NATO軍の作戦次第変化し地上ユーゴスラビア軍の、戦車大砲よりも大きいものを直接攻撃すること、並びに戦略爆撃加えることに重点置かれるようになった。この活動はしかし政治によって強く束縛されたものであった。その攻撃対象は、NATO加盟19箇国が同意できるものでなければならなかったためである。モンテネグロNATOにより何度空爆受けたものの、モンテネグロ政治的指導者で反ミロシェヴィッチ派のミロ・ジュカノヴィッチ政治的不安定な状況支援するため、まもなくモンテネグロへの攻撃中止された。セルビア民間・軍事双方によって用いられている施設は「デュアル=ユース・ターゲット」(dual-use target)と呼ばれ攻撃対象となった。その中にはドナウ川かけられや、工場電力発電所通信施設、そして、ミロシェヴィッチの妻・ミリャナ・マルコヴィッチ党首務めユーゴスラビア左翼連合英語版)の本部セルビア国営放送の塔なども含まれていた。これらへの攻撃一部は、国際法、特にジュネーヴ条約違反するではないかとの見方もされた。NATOはしかし、これらの施設ユーゴスラビア軍事利するのであるとし、これらへの攻撃合法であるとした。 5月始めには、NATO航空機ユーゴスラビア軍輸送車隊と見誤ってアルバニア人難民輸送車隊を攻撃し50人ほどの死者出したNATO5日後に誤り認めたものの、セルビア人らは難民への攻撃意図的なのであるとして非難した5月7日アメリカ空軍B-2によって、ベオグラード中国大使館JDAM爆弾攻撃し、3人の中国人ジャーナリスト殺害し26人を負傷させた。これによって中国世論沸騰した当初NATOは「ユーゴスラビア施設への攻撃であった」と主張した。しかし、後に会議開催されアメリカ合衆国NATO誤り認めて謝罪し、「CIAによる地図古かったことによる誤爆であった」とした。この見解は、イギリスの新聞オブザーバー』の記事(1999年11月28日)や、デンマーク新聞『Politiken』から疑問提示された。それらの記事によると、「NATOは、中国大使館が、ユーゴスラビア軍通信信号中継(「アーカン」と呼ばれる人物からセルビア人暗殺部隊への情報通信)に使われていたことをアメリカ側把握していたため、「意図的に大使館狙って攻撃したではないか」と主張されている。また、訪中経験もあるセルビア指導者ミロシェヴィッチ中国から「老米」と親しまれ、後に息子のマルコ・ミロシェビッチ(英語版)とその妻や子供北京逃亡試みたようにミロシェビッチ一家中国親密な関係にあった。この「誤爆」によって、NATO中国との間で関係が悪化し北京にある西側諸国大使館周辺NATO加盟国にゆかりのある企業マクドナルドなど)では、店舗破壊を伴う攻撃的なデモ活動起こった。 なお、駐中国大使館を爆撃目標指定したのは、アメリカ中央情報局CIA)のウィリアム・J・ベネット中佐であり、「誤爆」の責任を取らされて、2000年CIA解雇されている。その後2009年3月22日ベネット中佐が妻とともに公園散歩していた際に、窓のない白い不審車両公園入って行き激し物音がした後に自動車走り去るという出来事発生した発見され時にはベネット中佐は既に死亡しており、妻も重傷負っていた。この殺人事件に関して2009年4月アメリカの外交誌『フォーリンポリシー』は、ベネット中佐過去の経歴関係している「暗殺であった報じている。 一方米連捜査局(FBI)は、「事件ベネット経歴結びつける証拠一切ない」と暗殺説否定している。 また、コソボのドゥブラヴァ(Dubrava)収容所では、NATOによる空爆によって85人の死者出たと言われるヒューマン・ライツ・ウォッチコソボでの調査によると、5月21日18人の囚人NATO空爆によって死亡し、また3日前の5月19日には3人の囚人1人守衛死亡したとされた。 4月初め時点において、衝突終結には程遠いものと見られNATO諸国陸上での作戦、つまりコソボへの進攻を真剣に考えなければならなかった。そして、コソボへの進攻をするならば、早急に準備する必要があった。冬が訪れ前に準備整えなければならず、その際予想されるギリシャアルバニアの港から、アルバニア北部マケドニア共和国経由してコソボ陸路侵入する経路確保するためには、するべきことが山積していた。アメリカクリントン大統領は、アメリカ軍によるコソボ進攻究極の選択考えていた。代わりにクリントン大統領は、セルビア人政府機能を弱体化させるため、CIAコソボ解放軍訓練することを決定した同時にフィンランドロシアによるミロシェヴィッチ大統領説得交渉続けられた。ミロシェヴィッチ大統領最終的にNATOコソボ紛争解決に対して本気であり、一方的な解決をも辞さない姿勢であることを理解し、また反NATOの強い言辞並べロシアには、現実的にセルビアを守る力がないことを理解した。微修正加えた後、ミロシェヴィッチ大統領フィンランドロシア仲介による条件受け入れNATO関与による国際連合主導でのコソボ平和維持軍駐留同意した

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