1914年-1920年 第一次世界大戦とファシズムの創設
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「ファシズム」の記事における「1914年-1920年 第一次世界大戦とファシズムの創設」の解説
1914年8月の第一次世界大戦の勃発時点では、多数の社会主義政党は当初は参戦への反対を主張していた。しかし戦争が始まるとオーストラリアやイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどの社会主義者は、台頭するナショナリストの流れに追随し、彼らの国家による参戦を支持した。イタリアの左翼は戦争への立場をめぐって深刻な分裂となった。イタリア社会党は社会主義の国際主義を背景に戦争に反対したが、多数のイタリアの革命的サンディカリストは社会主義の成功を確実にするためにドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国の反動的な体制は打破される必要があるとの背景により、それらとの戦争を支持した。エンリコ・コラディーニ(英語版)はナショナリストの視点からイタリアのための「労働者階級国家」と、反動的なドイツの打倒は、同様に必要と表明した。参戦におけるこの分裂からファシズムの始まりが生まれ、イタリア社会党のアンジェロ・オリベッティ(英語版)は1914年10月に「国際行動のための革命的ファッシ」(伊: Fasci d'Azione rivoluzionaria internazionalista、英: the Revolutionary Fascio for International Action)を組織した。同時期にムッソリーニは参戦主義者の理由に賛同することを決断した。ファシストはナショナリズムを支持し、プロレタリアートの国際主義は間違いだと主張した。 この時、ファシストは整合性を持った政策のセットを持たず、運動は非常に小さかった。大集会の開催を試みたが効果的ではなく、常に政府当局や正統な社会主義者から妨害を受けた。ファシストを含めた参戦主義者と、反参戦主義の正統的な社会主義者の間の敵意は、暴力に転じた。反参戦主義の革命的社会主義者による、ファシストや他の参戦主義者に対する反対や攻撃は、非常に暴力的であったため、戦争に反対していた民主社会主義者の Anna Kulliscioff でさえ、イタリア社会党は戦争支持者を沈黙させる運動をするには遠すぎる場所へ行ってしまった、と述べた。 1917年にイタリアで開始された「アルディーティ (イタリア軍)(イタリア語版)」(Arditi)と呼ばれた命知らずのエリートの「突撃隊」は、ファシズムに重要な影響を与えた。アルディーティは暴力の絶えない生活で特別に訓練された兵士で、独特な黒シャツの制服とフェズ帽を着ていた。1918年11月にアルディーティは国家組織に組織されて Associazione fra gli Arditi d'Italia となり、1919年の半ばまでには2000人の若者が所属した。ムッソリーニはアルディーティを気に入り、戦後にアルディーティをベースにしたファシスト突撃隊の「Squadristi」を組織し、黒シャツ隊と呼ばれるようになった。 参戦反対で国際主義のマルクス主義者と、参戦賛成でナショナリストやサンディカリストのファシストの暴力的な分裂は戦争終結までには決定的となり、2つの陣営は和解不可能となった。ファシストは彼ら自身を反マルクス主義でソビエトの共産主義に反対すると提示した。ムッソリーニは1919年にファシスト運動の制御を統合し、「イタリア戦闘者ファッシ」を創設し、伝統的な社会主義に反対して以下のように宣言した。 我々は社会主義への戦争を宣言するが、それが社会主義だからではなく、それがナショナリズムに反対するからである。我々は、社会主義とは何か、その計画は何か、その戦略は何か、という疑問を議論する事ができるが、しかし公式なイタリア社会党は反動的で絶対的に保守的になってしまった事だけは明白である。もしその見方が普及すれば、今日の世界における我々の生存は不可能になる。 — ベニート・ムッソリーニ 未来派 ファシズムは初期には未来派と近い関係を持ち、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティによる1909年の「未来派宣言」は「行動、技術、戦争」を美化し、合理主義に対して非合理主義(en:irrationalism)や、近代美術や暴力的な美術や美学、近代美術を自由にするための全ての過去の伝統的な美術の破壊、愛国心や軍国主義の推進などの革命的な陣営となった。未来派はファシズムと同様に、国家をコーポラティズムの流儀で、1つの有機的な身体と定義した。ただし、マリネッティは「イタリアの民主主義は我々にとって、我々を解放する組織である」と民主主義の継続を主張した。マリネッティは当初はファシズムに魅かれたが、イタリアで一時的に力を持ったより近代的な保守的美学を採用した。 ファシスト・マニフェスト 1919年にファシストは、ファシスト・マニフェストを作成した。このマニフェストは国家サンディカリストのアルチェステ・デ・アンブリス(英語版)と、未来派運動のマリネッティによって書かれ、1919年6月6日にファシストの新聞である Il Popolo d'Italia に掲載された。このマニフェストは政治体制として、男性と女性の両方の参政権を持つ普通選挙や、地域をベースとした比例代表制の選挙制度や、コーポラティストの考えである労働者や工業、交通、公衆衛生、通信などの職業別の領域ごとに選挙されて彼らを代表する法的権限を持った職業人や商人から選出された専門家による「国家評議会」の制度の創設や、イタリア上院(貴族院)の廃止などを主張した。また経済社会政策として、全労働者の8時間労働制限、最低賃金、産業管理における労働者代表、産業別や公共部門の労働組合の平等な信任、交通部門の再編、無効な保険に関する法案の修正、退職年齢の65歳から55歳への引き下げ、資本に対する強力な累進課税、宗教的施設の資産没収や主教の廃止、軍需契約の利益率の抑制などを主張した。軍事政策として、防衛業務に従事する短期の国家的な民兵の創設、軍需産業の国営化、平和的だが競争的に設計された外交政策などを主張した。 ファシストに影響した次の出来事は、イタリアのナショナリストのガブリエーレ・ダンヌンツィオによる「未回収のイタリア」の一部であるフィウーメの占拠(カルナーロ=イタリア執政府)と、ダンヌンツィオとアンブリスによる1920年のカルナーロ憲章(英語版)の発表であった。主筆者であったアンブリスは、ダンヌンツィオの政治的視点に沿った国家サンディカリスムとコーポラティズムの生産主義を組み込んだ憲章を設計した。多くのファシストがカルナーロ憲章を、ファシスト国家イタリアのための理念的な体制とみなした。
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