1914年—1942年
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「ティターン・バリカディ」の記事における「1914年—1942年」の解説
第一次世界大戦の開戦前の時点で、ロシア帝国が保有する海軍艦艇用大口径砲の生産工場はサンクトペテルブルクのオブコフ国立工場(英語版) 1箇所しかなかった。このため、既に中小口径砲の生産で実績があったペルミ火砲工場(英語版)を中心として生産体制を整備し、ツァリーツィン (1925年にスターリングラード、1961年にヴォルゴグラードに改名)に工場を建設することが決定された。工場建設はロシア帝国砲兵工廠と、そのパートナーであったイギリスのヴィッカースにより進められることになり、1914年に建設開始、1917年には最初の砲が出荷された。また、同年からエフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ベルカロフの指導の下、火砲の設計が行われるようになった。 1938年にはより強力な火砲を開発するため、イリヤ・イワノヴィチ・イワノフ率いる第221設計局 (OKB-221) が組織され、Barrikady (Баррикады) から採った "Br-" シリーズの臼砲やカノン砲、榴弾砲を開発した。 Br-5 280mm臼砲 Br-17 210mmカノン砲 Br-18 305mm榴弾砲 1942年8月、スターリングラード攻防戦の戦火を避けるため第221設計局は解散され、技術者はそれぞれ以下の工場に疎開した。 中央砲兵設計局 (現RKKエネルギア) (カリーニングラード (現コロリョフ)) 特殊機械製造設計局(英語版) (レニングラード) 第9設計局 (OKB-9)(ロシア語版) (スヴェルドロフスク) 第172設計局 (OKB-172)(英語版) (ペルミ) 第75設計局 (OKB-75)(英語版) (ユルガ) イワン・イリイチ・リュドニコフ大佐率いる第138狙撃師団とステパン・サヴェーレヴィチ・グリエフ少将率いる第39親衛自動車化狙撃師団が工場の防衛を担当したが、1942年8月から1943年1月にかけての激しい戦闘で工場の大部分が破壊された。1944年には部分的に復旧し、再び火砲を生産して前線に送り出すようになった。 Br-5 280mm臼砲 Br-17 210mmカノン砲 Br-18 305mm榴弾砲
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