1914年から1917年まで
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「テキサス (BB-35)」の記事における「1914年から1917年まで」の解説
1914年3月24日、テキサスはバージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍造船所からニューヨークへ向けて出航した。3月26日の夜にスタテン島のトンプキンズヴィルに到着し、翌日ブルックリン海軍工廠のドックへ入り、そこで約3週間かけて射撃管制装置の取り付けが行われた。 ニューヨークでの滞在中にメキシコ東部沿岸の町タンピコにおいてアメリカ軍の砲艦乗員がメキシコ政府の軍隊に拘留されるという事件(タンピコ事件)が発生し、この事態に対処するためウッドロウ・ウィルソン大統領は大西洋艦隊の艦船数隻をメキシコ領海内へ派遣した。この問題は事件発生現場において早いうちに解決されたが、ヘンリー・T・メイヨー少将は、星条旗を掲げ21発の祝砲発射を行って公式謝罪するようウエルタ政権に対し要求した。 メキシコ政府による非民主主義的な行為を目の当たりにしたウィルソン大統領は、4月20日、連邦議会においてこの問題が議論される前に、事件に対する報復措置としてフランク・F・フレッチャー少将に対しメキシコ沖の艦隊を率いてベラクルスへ上陸し、税関を取り押さえるように命じた。この上陸は4月21日と翌22日にかけて実行された。 こうしてメキシコとの政治的緊張の高まりのために、テキサスは通常の慣らし航海や整備調整を行う間もなく、5月13日に作戦に加わることとなった。5月14日から19日までハンプトン・ローズに停泊した後、5月26日にベラクルス沖でフレッチャー少将の艦隊に加わった。そして、テキサスは陸上部隊を支援しながら、2ヶ月以上に渡りメキシコ領海内に留まった。その後、8月8日にベラクルス近海から離脱し、キューバのナイペ湾へ移動、そこからニューヨークへと進路をとり、8月21日に海軍造船所に入渠した。 9月6日まで同地に滞在した後、テキサスは大西洋艦隊に復帰し、予定されていた作戦行動に従事した。同年10月に再びメキシコ沿岸に戻り、月末にはベラクルスのタクスパンを拠点として11月4日まで任務に就いた後、テキサス州ガルベストンへ向かった。ガルベストンでの滞在中の11月7日にグラント艦長はテキサス州知事のオスカー・コルキットから銀食器セットを贈呈された。このとき、テキサス州ウェーコの青年からなる商業団体は、銀を購入するために1万USドルの資金を集めた。 11月14日、テキサスはタンピコへ向けて出航し、その後ベラクルスに向かい、そこで1月余り留まった。12月20日、メキシコに最後の別れを告げニューヨークへと出航した。12月28日、ニューヨーク海軍造船所に戻ったテキサスは修理等を受けて、1915年2月16日までそこに滞在することとなった。同年5月25日、テキサスは戦艦サウスカロライナ、ルイジアナ、ミシガンと共に、ノルウェーの果物運搬汽船ジョゼフ・J・クネオと衝突事故を起こしたホーランド・アメリカライン社の客船リンダムの乗客230人の救助活動を行った。1916年、テキサスに対空砲と今日のコンピュータの前身であるアナログ式の射撃管制装置がアメリカ戦艦としては初めて設置された。
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