1914年の東部戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
「第一次世界大戦」の記事における「1914年の東部戦線」の解説
ロシアの2個軍はシュリーフェン・プランの仮定と違って、開戦から2週間で東プロイセンへの侵攻を開始したため、東部戦線の情勢はドイツにとって厳しいものだった。ドイツはシュリーフェン・プランにより西部戦線に集中したため、東部戦線では守備態勢をとった。そのため、ドイツはロシア領ポーランドとの国境地帯にあるいくつかの町を占領したに留まり、1914年8月のカリシュの破壊(英語版)がその一環となった。8月20日のグンビンネンの戦い(英語版)の後、東プロイセンを守備するドイツ第8軍は撤退、東プロイセンの一部がロシアに占領された。その結果、東部戦線のドイツ軍は増援され、新たにパウル・フォン・ヒンデンブルク大将が司令官、エーリヒ・ルーデンドルフ少将が参謀長に就任した。2人は8月末のタンネンベルクの戦いに勝利、アレクサンドル・サムソノフ率いるロシア第2軍(英語版)をほぼ全滅させて東プロイセンを確保した。続く9月の第一次マズーリ湖攻勢でもパーヴェル・レンネンカンプ率いるロシア第1軍(英語版)が敗北したため、ロシア軍は東プロイセンの大半から撤退した。 8月24日から9月11日までのガリツィアの戦い(英語版)の後、ロシア軍はオーストリア=ハンガリー領ガリツィア・ロドメリア王国を占領した。オーストリア=ハンガリー軍はガリツィアの首都レンベルクを攻撃した後、ロシア軍が人数で圧倒的に優位にあったため撤退を余儀なくされた(レンベルクの戦い(ドイツ語版)、8月26日 - 9月1日)。ロシアによる第一次プシェムィシル包囲は9月24日から10月11日まで続いた後、一旦解かれた。オーストリア=ハンガリー軍を救うべく、新しく編成されたドイツ第9軍(英語版)はポーランド南部攻勢(英語版)を開始したが失敗した。11月1日、ヒンデンブルクがドイツ軍総指揮官に任命された。11月9日、第二次プシェムィシル包囲が開始、オーストリア=ハンガリーの駐留軍は1915年3月22日まで耐えた末に降伏した。ドイツのウッチ地域における反攻(英語版)は11月11日に開始、12月5日まで続き、その後はロシア軍が守備に入った。
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