1914年フランスグランプリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「1914年フランスグランプリ」の解説
詳細は「1914年フランスグランプリ(英語版)」を参照 1914年フランスGPのメルセデス・18/100PS(ラウテンシュラガー車、#28)。メルセデスは5台の1914年型グランプリカーを投入した。前方に行くに従いすぼまるウェッジシェイプ(楔型)のボディ形状を採用している。 1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の大公フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺される事件(サラエボ事件)が起きたことから、その翌週7月4日のフランスグランプリはヨーロッパ中が緊迫した政治情勢下にある中で開催されることになった。このレースは名勝負となったことから、後に「グランプリの中のグランプリ」と呼ばれることになる。 この年のフランスグランプリでは1908年以来6年振りにエンジン規定に変更が加わり、最大排気量を4,000cc以下とすることが定められていた。ダイムラーにとってはそれまで製作したことのない小排気量だったが、パウル・ダイムラーはダイムラーが航空機エンジンで培ってきた技術を取り入れ、3,200rpmの高回転エンジン「M93654」を開発することでこれに対応した。 このレースをグランプリ復帰戦にするつもりのダイムラーは準備に力を入れ、チームの責任者に任命されたワークスドライバーのマックス・ザイラーはレースの数か月前から技術者をコースに派遣し入念な下調べを行い、現地の雪が解けると入念な走り込みまで行ってレースに備えた。レースは当時最高のドライバーの一人とみなされていたジョルジュ・ボアロ(英語版)が駆るプジョーとメルセデスのザイラーのトップ争いで幕を開け、次いでメルセデスのラウテンシュラガーがボアロと争い、ボアロがファイナルラップでリタイアしたことにより、ラウテンシュラガーが優勝を手にし、2位と3位もメルセデスが入賞し、復帰戦を1-2-3フィニッシュで上位を独占する結果となった。 大きな成功を収めたこのレースは後のメルセデス(メルセデス・ベンツ)のレース活動においてひとつの指標のような位置付けとなり、1934年と1954年のグランプリレース復帰時はいずれもフランスグランプリまでに復帰を遂げることが目標として設定されている。
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