W25の基本コンセプトと開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「W25の基本コンセプトと開発」の解説
詳細は「メルセデス・ベンツ・W25」を参照 1933年初めに翌年に向けた新型レースカーの開発を承認したダイムラー・ベンツはその開発費用として250万ライヒスマルクの予算を認め、かつてのワークスドライバーの一人で当時は中央設計本部の本部長という要職にあったマックス・ザイラーを開発計画の責任者に据えた。車両の開発は中央設計本部で行われ、全般の責任者はハンス・ニベル、車体の設計はマックス・ヴァグナーに委ねられ、他の分野も1920年代以前からのベテランたちに担当が任された。 開発体制が固まった時点で1934年3月のシーズン開幕まで残り1年ほどとなっていたため、開幕に間に合わせることには固執せず、1914年フランスグランプリから20年後のレースとなることから、1934年7月のフランスグランプリ(英語版)に参戦することを当座の目標として定めて新型車の開発は進められた。 ベンツ出身のニベルは新型車を開発するにあたって、かつて自身が設計したトロップフェンワーゲンと同様、リアエンジン(リアミッドシップ)にすることも検討し、フロントエンジンとリアエンジンのどちらが有利となるか実験と検証を行った。重量に与える影響では、リアエンジンであればドライブシャフトが不要なので軽量化が見込めると考えられていたが、実験の結果、それほど違いはなく、空力面でも差がないことが判明する。また、重量物であるエンジンを車体前部に搭載することにはフロントタイヤの接地性で優位性があることも明らかとなる。結局、当時の技術水準ではフロントエンジンのほうが総合的には有利であると判断し、ドライバーの慣れの要素なども考慮に入れた上で、フロントエンジン・リアドライブ(FR)というSSKL以前と同様のオーソドックスなレイアウトを新型車でも踏襲することにした。エンジンレイアウトはオーソドックスなものとした一方で、足回りはベンツ以来の知見を取り入れて、四輪全てに独立懸架式サスペンションを採用した。これはダイムラー・ベンツが1933年2月に発表した量産車の380(英語版)(W22)から刺激を得たもので、フロントをダブルウィッシュボーン、リアをスイング式とした独立懸架式サスペンション、スーパーチャージャーを統合した直列8気筒エンジンという組み合わせは同車からの影響とされ、当時の同社の知識が結集された。 基本コンセプトが優れていたW25は2年目となる1935年には内部機構を大きく進歩させた上で継続使用され、上記のように初年度以上の活躍を見せることになる。 エンジンの開発はアルベルト・ヘスを中心としたチームが担当し、ヘスは1930年代を通じてメルセデス・ベンツのレース用車両のエンジンを手がけることとなる。1934年の完成時に搭載されていた直列8気筒のM25A(3,360cc)の時点でSSKLを上回る354馬力という高出力だったが、ライバルであるアウトウニオンに対抗する必要が生じたことから、同年中に徐々に排気量の大きなエンジンに換装されていった。2年目の1935年に開発されたM25Cエンジンでは排気量は4,310ccにまで拡大し、それに伴い出力も462馬力にまで増大した。最終的に、1936年のME25エンジンでは排気量4,740ccとなり、最高出力は494馬力に到達した。
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