1914年–1920年
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「アメリカ無線中継連盟」の記事における「1914年–1920年」の解説
ARRLの共同創設者であるハイラム・パーシー・マキシム(英語版)は、1914年当時、コネチカット州ハートフォードに住むビジネスマン・エンジニア・発明家(マキシム・サイレンサーなど)だった。 彼は活発に活動するアマチュア無線家でもあり、彼の無線局はハートフォード地区で最高の設備を備えた無線局の1つだった。1914年4月のある夜、彼はマサチューセッツ州スプリングフィールドにいるアマチュア無線家にメッセージを送ろうとした。彼の無線局(コールサイン 1WH)の出力は1キロワットで、スプリングフィールドまでは30マイル (48 km)しか離れておらず、正常に通信できる範囲内だった。彼は連絡をとることができず、その中間地点であるコネチカット州ウィンザー・ロックス(英語版)にいる別のアマチュア無線家を知っていたのを思い出し、彼にメッセージを中継するように頼んだ。その時点で、彼の無線局が正常に通信できる範囲は数百マイルだったので、マキシムは組織されたメッセージ中継システムがあればアマチュア無線家にとって非常に役に立つと認識した。 マキシムはハートフォード無線クラブのメンバーであり、1914年4月のクラブの会合で「アメリカ無線中継連盟」の組織計画を発表した。クラブは、その組織の発展を支援することに同意した。マキシムとクラレンス・D・タスカ(英語版)(ハートフォード無線クラブの幹事)は申込用紙を作成し、考え得る全てのアマチュア局に送付した。1914年9月までに、ARRLの名簿に記載された局は230を超えていた。 1915年初めに、連盟におけるハートフォード無線クラブの役割について意見の相違が浮上し、2月にARRLがクラブから分離して、コネチカット州の法律下の組織となった。ARRLの財政は不安定であり、収入の大部分は小冊子、地図などの販売によって賄われていた。1915年3月までに600局が加盟し、機器や操作能力の向上により、最大で1000マイル以上の通信可能距離を持つ局も現れ始めていた。ARRLが会員と連絡を取るために何らかの形での会報を発行する必要が生じた。マキシムとタスカは個人的に資金を調達して、1915年12月に機関誌『QST』の第1号が全ての会員に無料で送られた。第1号のQSTは16ページの冊子だった。第2号以降は年間1ドルの予約購読によって提供された。 1916年、連盟の会員数が1000局に近づいたのに伴い、マキシムは東西南北に6局のリレー局からなる幹線を設定し、それぞれの管理者を任命した。メッセージは次第に長距離に中継されるようになり、1917年2月にニューヨークからロサンゼルスにメッセージが送信され、1時間20分で返事が届いた。 1917年、連盟はより正式な組織に再編成された。規約が採択され、12人の理事と4人の役員(マキシム会長とトスカ副会長を含む)が選出され、無線に関心を持つ人は誰でも参加することができるようになった。それから間もなく、アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦したため、全てのアマチュア無線家に、アンテナを撤去するよう要請する商務省からの手紙が届いた。 第一次世界大戦の間、連盟は軍の通信士へのアマチュア無線家の募集を促進したが、民間人による無線機器の実験は全て禁止されたため、それ以外にはほとんど何もできなかった。1918年11月に停戦協定が調印されたが、米国議会は米国内の全ての無線事業を海軍の管理下に置く法案を提出した。当然、ARRLはその法案に強く反対した。マキシムは議会委員会で証言し、ARRLは効果的な草の根のキャンペーンを組織し、何千人もの人々が野党の議員に連絡を取った。その法案は廃案となり、1919年4月、アマチュア無線家は再びアンテナを設置することを許可されたが、それは受信のためだけだった。 一方、連盟は組織再編が必要となった。会員に債券を売ることで資金を調達する計画が採択され、約7500ドルが調達された。QSTは権利の保有者であるタスカから連盟が買い上げた。ARRLは送信の権限の再開を求めて議会のロビー活動を継続し、1919年11月にアマチュア無線が全面的に復活した。
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