カルナーロ憲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/08 14:54 UTC 版)
「カルナーロ=イタリア執政府」の記事における「カルナーロ憲章」の解説
1920年1月11日、ダンヌンツィオは高名なサンディカリストで、イタリア下院議員のアルチェステ・デ・アンブリス(英語版)をフィウーメ司令部の内閣首班(Capo di Gabinetto del Comando Fiumano)に任命し、フィウーメの統治形態を一新することとした。デ・アンブリスはベニート・ムッソリーニと知己であり、ダンヌンツィオとデ・アンブリスの関係をとりもったのはムッソリーニであった。しかしこの背景には、ダンヌンツィオがフィウーメから「ローマ進軍」することをおそれたムッソリーニの策謀であるという指摘もある。 デ・アンブリスは早速フィウーメの憲法策定にとりかかり、3月18日にダンヌンツィオに憲法草案を提出した。デ・アンブリスはフィウーメのイタリア併合は現状では不可能であると考えており、暫定的にフィウーメを共和国として成立させるという方策をとることにした。ダンヌンツィオは憲法草案を部分的に修正し、8月31日に劇場で「カルナーロ憲章(英語版)」を発表した。 デ・アンブリスの草案では国名は「カルナーロ共和国(Repubblica di Carnaro)」であったが、ダンヌンツィオが決めた国名は「カルナーロ=イタリア執政府(Reggenza Italiana del Carnaro)」であり、あくまでイタリア王国の下に属するべき存在であった。1920年の春頃には占拠初期の側近であった国家主義者や将校は姿を消し、デ・アンブリスら左派サンティカリズム系の人物がダンヌンツィオの側近を占めるようになったこともあって、その他の条文にはサンディカリストとしてのデ・アンブリスの思想が強く反映されているが、ダンヌンツィオの哲学的・唯美的な主張も盛り込まれている。しかし代議院や経済評議院の開催期間がきわめて短期間であるなど、「異常なほど楽観的な憲法」であった。またこのカルナーロ憲章が後のファシスト党に影響を与えたという見方もある。
※この「カルナーロ憲章」の解説は、「カルナーロ=イタリア執政府」の解説の一部です。
「カルナーロ憲章」を含む「カルナーロ=イタリア執政府」の記事については、「カルナーロ=イタリア執政府」の概要を参照ください。
- カルナーロ憲章のページへのリンク