カルナータカ太守及びデカン総督への任命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/11 15:01 UTC 版)
「ズルフィカール・ハーン」の記事における「カルナータカ太守及びデカン総督への任命」の解説
1681年以降、皇帝アウラングゼーブがデカン地方へ長期遠征を行うと(デカン戦争)、ズルフィカール・ハーンもこれに参加し、ビジャープル包囲戦やゴールコンダ包囲戦に参加した。 また1689年3月、マラーター王サンバージーの処刑後、ズルフィカール・ハーンはヤークト・ハーンとともにマラーター王国の首都ラーイガドを包囲し、同年10月19日までにこの地を占拠した。このとき、サンバージーの息子シャーフーを捕えることに成功した。 だが、サンバージーの弟でマラーター王のラージャーラームがラーイガドを脱出し、同年11月に南インドのシェンジに逃れた。ズルフィカール・ハーンはこれを追い、翌1690年4月にパンハーラーを落としたのち、このシェンジを包囲し、籠城するマラーター軍と戦った(シェンジ包囲戦)。 1692年4月、ズルフィカール・ハーンはアウラングゼーブの命により、南インドを統治するために新設されたカルナータカ太守に任命された。その首府はシェンジからさほど遠くないアルコット(アールッカードゥ)におかれたが、ズルフィカール・ハーンはシェンジで包囲の指揮をとった。 その後、マドゥライ・ナーヤカ朝やタンジャーヴール・マラーター王国などの妨害を受けながらも、1698年1月にようやくシェンジを陥落させた。シェンジの支配はラージプートのスワループ・シングに任せられた。だが、ラージャーラームは逃げ、デカン地方のサーターラーへと行き、そこを王都とした。 ズルフィカール・ハーンは引き続き太守の地位にあったが、1703年にダーウード・ハーン・パンニーと交代させられ、デカン総督となった。ズルフィカール・ハーンはダナージー・ジャーダヴといったマラーター側の将軍と戦い、1704年にはワーギーンゲーラー包囲戦に参加した。 1707年3月、アウラングゼーブが死亡して帝国軍が引き返したのちも、ズルフィカール・ハーンはデカン総督の地位にあったが、1710年にダーウード・ハーン・パンニーと交代させられ、デリーへと戻った。だが、ダーウード・ハーンは彼の代理人のような役割を果たした。
※この「カルナータカ太守及びデカン総督への任命」の解説は、「ズルフィカール・ハーン」の解説の一部です。
「カルナータカ太守及びデカン総督への任命」を含む「ズルフィカール・ハーン」の記事については、「ズルフィカール・ハーン」の概要を参照ください。
- カルナータカ太守及びデカン総督への任命のページへのリンク