カルナータカ太守による併合とマイソール戦争による災禍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/20 10:00 UTC 版)
「タンジャーヴール・マラーター王国」の記事における「カルナータカ太守による併合とマイソール戦争による災禍」の解説
1763年12月16日、プラタープ・シングは死亡し、息子のトゥラジャージー2世が王位を継承した。 だが、カルナータカ太守ムハンマド・アリー・ハーンはカーナティック戦争の負債から、タンジャーヴール領を狙うようになった。 1773年、ムハンマド・アリー・ハーンは財政難のため、マドラスのイギリス東インド会社職員らの援助を得て、タンジャーヴール・マラーター王国を併合するために侵略した。これにより、同年9月17日に王国は併合され、彼と家族は投獄された(タンジャーヴール包囲戦) だが、イギリス東インド会社内からこの併合に関して批判が高まったことから、1776年4月11日にタンジャーヴール・マラーター王国はイギリスによって復活し、トゥラジャージー2世は復位した。なお、彼は復位の条件として、軍を解散したうえで、イギリス軍が領土に駐留することを認めることを承認させられた。 1780年、マイソール王国とイギリスとの間に第二次マイソール戦争が勃発すると、マイソール側のハイダル・アリーはしばしばタンジャーヴールの領土に侵攻した。 結局、トゥラジャージー2世はハイダル・アリーに忠誠を誓ったが、マイソール軍に王国の領土を略奪、破壊され、大勢の人々が連行された。1784年だけで、ティプー・スルターンによってタンジャーヴールから2万人の子供が連行された、と当時の宣教師クリスチャン・フリードリヒ・シュバルツは語っている。 マイソールから受けたタンジャーヴールの被害は甚大で、1782年までに王国の経済生産高は1780年の段階に比べて9割減に落ち込んだとされる。この襲撃はハイダラカラム(Hyderakalam)という動揺で語り継がれ、その復興は19世紀になるまでままならなかったという。
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