電気と「電流戦争」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/15 01:14 UTC 版)
「ジョージ・ウェスティングハウス」の記事における「電気と「電流戦争」」の解説
詳細は「電流戦争」を参照 1875年当時、エジソンはまだアメリカではあまり知られていなかった。1本の通信線で複数の電報の信号を送れるようにする多重化電報システムで成果を挙げていたが、彼が望むほどの認知を世間から得ていなかった。電話システムに関しても研究していたが、アレクサンダー・グラハム・ベルに出し抜かれてしまった。彼は失敗から素早く立ち直ると、蓄音機を発明してこれにより名声を得た。 1878年にエジソンは改良された白熱電球を発明し、これにより照明用の電力供給システムの必要性が生まれた。1882年9月4日、エジソンは彼のパール・ストリートにある研究所の周辺の、ロウワー・マンハッタンにある59の利用者に対して直流110 Vの電気を供給する、世界初の送配電システムの運用を開始した。 ウェスティングハウスはガスの供給や電話の回線交換への関心を持っており、そこから必然的に電力供給システムへの関心を持つに至った。彼はエジソンのシステムを検討し、このまま大規模に発展させていくにはあまりに非効率であると結論付けた。エジソンの電力供給システムは低い電圧の直流を用いており、大きな電流が流れて多大な損失を引き起こしていた。ヨーロッパの発明家の中には交流送電システムについて研究しているものがいた。交流送電システムでは、変圧器により電圧を上げて送電し、送電中の電力損失を減らしながら、利用者の近くで変圧器により電圧を落として使用することができた。 フランスのルシアン・ゴーラールとイングランドのジョン・ディクソン・ギブス (John Dixon Gibbs) により開発された変圧器は1881年にロンドンでデモンストレーションされ、ウェスティングハウスの関心を惹いた。変圧器自体は新しいものではなかったが、ゴーラールとギブスの設計したものは大量の電力を処理でき、かつ簡単に製造できる初めてのものであった。1885年、ウェスティングハウスは多数のゴーラール・ギブス式変圧器とシーメンス製交流発電機を輸入し、ピッツバーグで交流送電の実験を行い始めた。 ウィリアム・スタンリーとフランクリン・ポープ(英語版)の助けを得ながら、ウェスティングハウスは変圧器の設計を改良することに取り組み、実用的な交流送電システムを建設した。1886年、ウェスティングハウスとスタンリーは、最初の多電圧交流送電システムをマサチューセッツ州グレートバーリントン (マサチューセッツ州)(英語版)に設置した。送電システムへは水力による交流500 V発電機から電力が供給されていた。送電のために電圧は3,000 Vに上げられ、そして電灯を灯すために100 Vに再び落とされるようになっていた。交流送電につきものの問題点は、ポープが彼の自宅の地下で不調の交流変換機により感電死した時に浮かび上がった。同年、ウェスティングハウスはウェスティングハウス・エレクトリック・アンド・マニュファクチャリング・カンパニー (Westinghouse Electric and Manufacturing Company) を設立し、この会社は1889年にウェスティングハウス・エレクトリックとなった。 さらに30の交流送電システムが年内に設置されたが、効果的に交流の電力を測定する装置や交流電動機が欠けていることに制約されていた。1888年にウェスティングハウスとその技術者であるオリバー・シャレンジャー (Oliver Shallenger) は、ガスのメーターをまねた設計の電力計を開発した。今日でも同じ基本原理に基づく電力計が用いられている。交流電動機の開発はより難しかったが、幸運にもその設計は既に存在していた。セルビア系アメリカ人の優秀な発明家、ニコラ・テスラが多極式電動機の原理を既に考案していた。 テスラとエジソンの関係はうまくいかなかった。初期にはテスラはエジソン・ゼネラル・エレクトリック社のヨーロッパ法人で働いたが、彼の貢献に対する報酬が得られず、数年にわたって労働をしなければならなかった。後にエジソンは、テスラがエジソンの直流発電機を再設計することができたら5万ドルを与えると約束した。テスラがこれを実現した時、エジソンはテスラに対して金額については冗談を言っていたのだとかわした。テスラはほどなくエジソンの元を去った。 ウェスティングハウスはテスラと接触し、テスラの交流電動機の特許の権利を取得した。テスラは1882年に回転磁界の着想を得て、1883年に最初のブラシレス交流電動機、誘導電動機として実現した。ウェスティングハウスはテスラを1年間コンサルタントとして雇い、1888年から大規模な多極交流電動機の導入が始められた。これが現代のアメリカの電力システムの基礎となっている。 三相交流60 Hz は、電球のちらつきを最小限に抑えるためには十分高く、そして無効電力による損失を削減するためには十分低い周波数であり、これもまたテスラの着想によるものであった。 ウェスティングハウスによる交流送電システムの普及は、エジソンの直流送電システムとの対決を招くことになった。この争いは電流戦争として知られるようになった。エジソンは、高電圧システムは本質的に危険であると主張した。ウェスティングハウスは、危険性は管理可能なものであり、また利点がより勝ると反論した。エジソンは、いくつかの州において送電電圧を800 Vに制限する法案を成立させようとしたが、これには失敗した。 この争いは、1887年にニューヨーク州に指名された委員会がエジソンに対して、死刑囚を処刑するために最もよい方法について相談した時にばかげたレベルに行き着いた。エジソンは当初、死刑囚の処刑方法については関わりたがらなかった。 ウェスティングハウスの交流送電システムは明らかに電流戦争に勝利しつつあり、競争に執着するエジソンはライバルを倒す最後の機会を見出した。エジソンは、ハロルド・P・ブラウンという外部の技術者を雇い、公平を装って、公衆の面前で交流によって動物を殺す実験を行わせた。そしてエジソンはニューヨーク州の委員会に対して、交流はとても致命的であり、人をすぐに感電死させてしまうため、処刑するためには理想的な方法であろうと進言した。彼の名声はとても偉大であったため、この進言は採用された。 そしてハロルド・ブラウンは、電気処刑のための道具を州に対して8,000ドルで売却した。1890年8月、ウィリアム・ケムラーという名の死刑囚が電気椅子で処刑される最初の人間となった。ウェスティングハウスはその当時最高の弁護士を雇ってケムラーを弁護させ、電気処刑を「残酷で異常な刑罰」であると非難した。処刑には一度の失敗と8分もの時間を要したことから、ウェスティングハウスは斧で処刑した方がましであっただろうと抗議した。電気椅子は、処刑には不十分であると証明されたにもかかわらず、その後数十年にわたって標準的な処刑方法として使用された。しかしながら、エジソンはこの電気椅子による処刑を「ウェスティングハウスする」 (Westinghousing) と呼ばせることには失敗した。 エジソンはまた、その利点が欠点を上回っていた交流送電システムの信用を傷つけることにも失敗した。エジソン・ゼネラル・エレクトリックを1892年に吸収合併したゼネラル・エレクトリックでさえ、交流用の設備の生産を開始することを決定した。 1889年、ウェスティングハウスは電気技術者で発明家のベンジャミン・ラメ(英語版)を雇った。機械と数学に子供の頃から関心のあったラメは、オハイオ州立大学で工学の学位を取って1888年に卒業した。ウェスティングハウスの会社に就職して間もなく、彼は電気機械の主任設計者となった。彼の妹でやはりオハイオ州立大学を卒業したバーサ・ラメ (Bertha Lamme) はアメリカで初めての女性電気技術者となり、ウェスティングハウス社の技術者であるラッセル・フェイト (Russel Feicht) と結婚するまで彼の先駆的な仕事に加わった。発電に関するプロジェクトの中で、バーサ・ラメに関連すると考えられているのはナイアガラの滝での水車発電機である。ニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道は、ラメの直流電化システムを1905年に導入した。ラメは1903年から死去するまで、ウェスティングハウスの信頼する主任技術者であった。
※この「電気と「電流戦争」」の解説は、「ジョージ・ウェスティングハウス」の解説の一部です。
「電気と「電流戦争」」を含む「ジョージ・ウェスティングハウス」の記事については、「ジョージ・ウェスティングハウス」の概要を参照ください。
- 電気と「電流戦争」のページへのリンク