近代日本の法制史学の成立とは? わかりやすく解説

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近代日本の法制史学の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 10:02 UTC 版)

法制史」の記事における「近代日本の法制史学の成立」の解説

明治維新に伴う西洋法制及び法律学移入とともに近代日本法制史の始まる事になる。1874年東京開成学校(後の東京大学)において、イギリス人講師による「羅馬法(ローマ法)」講義が行われ、3年後1877年小中村清矩によって「日本古代法律」と呼ばれる日本法制史講義が行われた。もっとも、当時太政官制中心とする政治体制旧来の律令制近代国制混合形態であり、当時日本法制史旧来の有職故実延長であったこの頃から、法制整備目的律令法幕府法の研究が行われ、『憲法志料』や『大日本租税志』、『徳川禁令考』、『古事類苑』などが刊行された。この時期活躍したのは国学水戸学研究家であり、前述小中村清矩や『大日本史』の官職志や刑法志を編纂した栗田寛日本経済史草分け1人である横井時冬1890年日本最初法制史概説書である『日本制度通』を執筆した萩野由之池辺義象その他に木村正辞黒川真頼横山由清などがその代表的な研究家であった。特に小中村栗田東京帝国大学における歴史学基礎築いた事からその後法制史与えた影響大きい。その一方で西洋法制史文献日本流入してきており、1884年にはヘンリー・メインの『Ancient Law』 が文部省委託受けた鳩山和夫翻訳によって『緬氏古代法』として刊行されている。 本格的な法制史研究明治における獨逸学導入一環としてドイツの法制史研究導入によるところが大きい。その先駆者はドイツ渡ってグリムらのゲルマニステン法制史摂取して帰国した宮崎道三郎である。1893年東京帝国大学教授であった宮崎法制史比較法制史講座設置実現させ、自ら担当教官就任した宮崎講義平安時代末期までの体系化に留まったが、中国ドイツの法制と日本の法制比較通じて日本法制史発展の歴史把握しようとしたほか、古代日本語朝鮮語との比較から官制源泉探ろうとした。1902年法制史比較法制史講座は、日本法制史を扱う法制史講座西洋法制史を扱う比較法制史講座分離することになる。宮崎門人同じくドイツ留学した中田薫ドイツ法制史との比較通じて荘園土地所有封建制歴史研究して様々な著作発表したまた、宮崎退官後に日本法制史西洋法制史両方講義担当して1937年退官まで東京帝国大学史学科における法制史研究の中心存在になった一方宮崎法制史講座設置する直前卒業した三浦周行は、小中村栗田による有職故実系の法制史継承者としての側面有していた。その一方で明治以後日本でも盛んになった文化史社会史成果取り入れて文化史法制史学」と呼ばれる一派を自らが設立関与した京都帝国大学史学科に打ち立てた。こうして東京帝大中田中心として過去法体系現在の法体系比較適用して論理構成図ろうとする人々京都帝大三浦中心とする法の文化的・歴史背景その変遷重視する人々分かれる事になる。前者を「文科派」、後者を「法科派」と呼ぶ。また、既存有職故実立場からも『古事類苑』の編纂尽した佐藤誠実律令研究文科派・法科双方大きな影響与えている。また、宮崎からローマ法分野引き継いだ戸水寛人七博士意見書でも著名)もこの時期代表的な法制史家である。また、日本の律令法が中国律令法からの継受であることから、明治後期から中国法制史対す関心高まり、『清国行政法』を執筆した織田萬浅井虎夫広池千九郎東川徳治桑原隲蔵などが現れた。だが、その一方でこうした研究日本大陸政策深く関わっていった側面見落とす事は出来ない大正から昭和戦後期にかけて、三浦系統牧健二ら、中田系統石井良助高柳真三らに継承される。牧はドイツ封建制度との比較取り入れながら鎌倉幕府の成立過程藩法研究などを行い、特に文保年間守護補任巡って中田薫論争繰り広げた石井中世武家土地法の研究から知行に関してゲルマン法のゲヴェーレと根本概念同一とする中田説否定して、ゲヴェーレとローマ法のポセシオの中間形態とする新説唱えて牧や高柳論争行った高柳家族法研究から明治法制研究必要性唱えた戦前においては異端扱いを受けることもあったが、戦後においては一転して近代法制史研究先駆者として評価される事になる。また、江戸時代刑法家族法に関する著作多く残したこの他にも法科派の立場からスタートしながらも国学文科派の成果取り入れて律令研究押し進め、更に文化史民衆史にも取り組んだ瀧川政次郎や、牧とともに藩法研究先駆者として知られ近世民事法研究でも知られ金田平一郎、牧の門下から後に法科派に転じて近世民事法藩法研究から明治公法研究進んだ小早川欣吾などが活躍した中国法制史分野では仁井田陞島田正郎ローマ法分野では原田慶吉や後に芦田内閣国務相にもなった船田享二など多種多様な人材現れた。

※この「近代日本の法制史学の成立」の解説は、「法制史」の解説の一部です。
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