近代日本の神話学
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日本においての神話学の発展は、古代史としての神代史の発展に伴ってきたといわれる。 久米邦武が明治25年(1892年)、雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」(発表は1891年)が神道家や国学者らによって問題となり、東京帝国大学教授を辞任するという久米邦武筆禍事件が起きた。この事件以降、神代史(日本の神話時代の研究)は一時的に停滞する。 明治32年(1899年)は、日本の神話学にとって画期であった。高山樗牛が、「古事記神代巻の神話及び歴史」を『中央公論』3月号に発表し、神代史の自由研究を提唱する。樗牛は、「神代巻は神話歴史両者の混淆なり」として、古事記等における神話部分と歴史部分との判定を論じた。また、スサノオがヴェーダ神話(インド神話)のインドラ神に類似し、また日本神話とポリネシア神話が類似しているとも説いた。アマテラスが太陽神であるとすれば、スサノオは嵐の神であり、神話としては太陽と嵐との戦いとも解釈しうるなどと論じている。なお高木敏雄は樗牛の説を大体においては間違っていないと評価している。この年には、ほかに、樗牛の説を批判した国学院の高橋龍雄の論考、スサノオを驟雨神として論じた比較宗教学の姉崎嘲風(姉崎正治)の論考が出された。 姉崎嘲風の論考においては日本神話は、説明神話、説話、史的伝説の三つの区分を行い、さらに説明神話は天然神話(自然神話)と人事神話に分けられた。 翌明治33年(1900年)の『帝国文学』では高木敏雄(1876年 - 1922年)が無記名で神話研究を発表しはじめ、同雑誌では上田敏や新村出らの神話関連論考も発表された。高木は明治37年(1904年)には『比較神話学』を刊行した。この研究にはマックス・ミュラーや、アンドリュー・ラング、エーレンライヒらの影響がみられる。高木はその後も比較神話学による日本神話研究を続け、昭和18年(1943年)に『日本神話伝説の研究』(平凡社東洋文庫、全2巻)にまとめられた研究をすすめた。また高木は柳田國男や折口信夫らとも交流があり、柳田・折口らによる民俗学においても日本神話の研究が展開した。しかし、のちに高木と柳田は決裂している。大林太良は高木の業績について、フランスのアンリ・マスペロやマルセル・グラネらが1920年代に発表した中国神話の研究や、ヴォルフラム・エーバーハルトの30年代の研究と比較しても、先駆というべきであり、東アジア神話学の先駆者であったと評価している。 1924年には鳥居龍蔵が『日本周囲民族の原始宗教』(岡書院)を刊行し、中央アジアの神話伝承が検討されはじめた。 日本の神話学においてはほかに松村武雄、松本信広、三品彰英、津田左右吉らの研究がある。 戦後の代表的な研究者には、大林太良、吉田敦彦、松村一男。らがいる。
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