はらだ‐けいきち【原田慶吉】
原田慶吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 23:43 UTC 版)
原田 慶吉(はらだ けいきち、1903年7月30日 - 1950年9月1日)は、日本の法制史学者。専門はローマ法。兵庫県神戸市出身。
経歴
- 1926年 - 東京帝国大学法学部卒業(英吉利法選修)。同助手。
- 1929年 - 東京帝国大学法学部助教授。
- 1936年-1938年 - ドイツ留学
- 1939年 - 東京帝国大学法学部教授。
- 1944年 - 東大法学部の蔵書疎開の責任者となり、疎開先の千葉の農家と大学を妻とリヤカーで往復する日もあったほどの生活を送る[1]。都内の自宅が被災し、妻子は君津町に疎開、自身は大学の研究室に寝泊まりした[2]。戦後も六畳一間に家族5人の間借り生活となったため、研究室に入り浸った[1]。
- 1947年1月 - 深夜、東大赤門付近で、駐留米軍兵士の強盗に襲われ、脳挫傷の重傷を負う[3][4][注釈 1]
- 1949年 - 法制史学会の設立に尽力、発起人の一人となる。11月の会の設立後は初代の代表理事に任命された。
- 1950年 -「楔形文字法の研究」により、1949年度 朝日文化賞受賞
- 1950年4月 - 前述脳挫傷の後遺症による極度の抑欝症を発症、東京大学医学部附属病院に入院。
- 1950年9月1日 - 仮退院後、東京都杉並区高円寺の自宅で療養中に縊死[3][4][5]。警察は神経衰弱による発作的自殺と発表[1]。生前、税務署のミスで多額の所得税の請求があり、病身で関係各所に確認作業を行ない、帰宅後倒れるなど心労が続いていたという[1]。自死した借間の隅のミカン箱には自著の『ローマ法』と『ローマ法の原理』が置かれていた[1]。
家族
- 兄・原田亨一(1897-1938) ‐ 武蔵高等学校 (旧制)歴史教諭。東京帝国大学文学部国史科卒。著書に『近世日本演劇の源流』、『平安時代の藝術』、『弘仁芸術の背景』など。教え子に太田晶二郎、太田博太郎がいる。[6]
- 弟・原田季夫(1908-1967) ‐ 牧師。ハンセン病患者救済活動で知られる。病弱だった旧制高校時代に自身がハンセン病を疑った経験から、50歳で電電公社を退職し、好善社の支援活動に参加、国立療養所長島愛生園の教会の牧師となり、神学校「長島聖書学舎」を設立して校長を務めた。[7]
- 妻・春子[2]
著書
- ローマ法(上巻・下巻)(有斐閣、1949年、のちに上下巻合本)
- 楔形文字法の研究(弘文堂、1949年)
- ローマ法の原理(弘文堂、1950年)
- イエーリング「ローマ法の精神」第一巻翻訳・監修(有斐閣 1950年)
- 日本民法典の史的素描(石井良助編 創文社、1954年)
栄典
- 1929年(昭和4年)4月15日 - 従七位[8]
- 1931年(昭和6年)5月15日 - 正七位[9]
- 1933年(昭和8年)9月15日 - 従六位[10]
- 1936年(昭和11年)2月15日 - 正六位[11]
- 1938年(昭和13年)9月15日 - 従五位[12]
- 1942年(昭和17年)2月14日 - 勲四等瑞宝章[13]
- 1950年(昭和25年)9月1日 - 従四位[14]
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e 『自殺者』若一光司、幻冬舎、1998、p50-53
- ^ a b 『中田薫』北康宏、吉川弘文館、2023/07/13 「第12章 戦中・戦後の生活と静かな晩年」
- ^ a b 木庭顕『新版ローマ法案内』勁草書房、2017年、7頁 注2
- ^ a b 原田春子「わが子とともに」 『婦人の友』1956年(昭和31年)9月号、58頁
- ^ 『出版年鑑 1951年版』出版ニュース社、1951年、p.67。
- ^ オンケルの遺産 「民文」の礎を築いた原田亨一武蔵学園百年史
- ^ 原田季夫歴史が眠る多磨霊園
- ^ 『官報』第727号、1929年6月4日。
- ^ 『官報』第1336号、1931年6月15日。
- ^ 『官報』第2023号、1933年9月27日。
- ^ 『官報』第2742号、1936年2月25日。
- ^ 『官報』第3529号、1938年10月6日。
- ^ 『官報』第4532号、1942年2月19日。
- ^ 『官報』第7114号、1950年9月27日。
関連項目
外部サイト
- コトバンク
- 法制史学会の歩み
- 原田慶吉教授(1903~1950)著作目録(2訂版) - 広島大学法学部 吉原研究室のページ内
- 原田慶吉電子文庫
原田慶吉と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 原田慶吉のページへのリンク