いみ‐な【×諱】
諱
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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国など東アジアの漢字圏における呼称である。「忌み名」とも表記される。
注釈
出典
- ^ 顧炎武『日知録』に「生曰名死曰諱」とある。
- ^ 素焼きの器。瓦盆
- ^ 『三国志』魏書25高堂隆伝
- ^ 本居宣長『古事記伝』巻35-11
- ^ 穂積陳重『実名敬避俗研究』 刀江書院、大正15年初版、絶版。口語訳:穂積陳重・著、穂積重行・校訂『忌み名の研究』 講談社、講談社学術文庫 1992年3月10日初版 ISBN 4061590170
- ^ 近代デジタルライブラリー - 実名敬避俗研究 - 国立国会図書館
- ^ 前掲、陳重『忌み名の研究』 p.53-60
- ^ 前掲、宣長 巻3
- ^ 前掲、陳重『忌み名の研究』 p.58-59
- ^ “特集 さなイチ 別冊!インタビュー 時代考証 丸島和洋さん ~豊臣秀吉の残した遺言~”. NHK大河ドラマ『真田丸』. 2016年8月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年8月20日閲覧。
- ^ 本来の通字は斯波家氏(初代当主)・斯波宗家(2代当主)・斯波家貞(3代当主)・斯波家兼(初名:時家。3代当主の子で4代当主の弟)・斯波家長(4代当主の長子)などの例から「家」字であったと思われる。
- ^ 小久保嘉紀「将軍偏諱の授与とその認知―相良義陽の事例から―」(初出:『九州史学』173号(2016年)/所収:木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-303-9)
- ^ 司教協議会への手紙――「神の名」について - カトリック中央協議会 フランシス・アリンゼ、アルバート・マルコム・ランジス
諱(本名、実名)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:25 UTC 版)
詳細は「諱」および「実名」を参照 個人名である「諱(いみな)」は、公家武家を問わず、通字を用いる習慣が見られる。鎌倉北条氏の「時」、足利氏の「義」、武田氏や織田氏の「信」、後北条氏の「氏」、徳川氏の「家」、伊達氏の「宗」などが有名である。家祖あるいは中興の祖として崇められるような家を飛躍させた祖先にあやかり、同じ諱を称する「先祖返り」という習慣もあった。これは伊達政宗が有名である。 先祖や創始者の諱を代々称する武家もあった。これは、市川團十郎・中村歌右衛門のような歌舞伎役者や笑福亭松鶴・柳家小さんなどの落語家などで名人とされた人の名を襲名する習慣や、上記のような商人の屋号の継承(茶屋四郎次郎など)という形で庶民にも広がった。 武家では、主君の諱の一字を拝領をすることが栄誉とされた。与えられた字のことを「偏諱(へんき・かたいみな)」と言う。有名な例では足利高氏は北条高時の一字を拝領し、鎌倉幕府が滅んだ後に後醍醐天皇(名が尊治)の一字を拝領して足利尊氏に改名した。烏帽子親の一字を受けることも多かった(北条高時は高氏・尊氏の烏帽子親である)。 偏諱には、代々の通字を与える場合と通字ではない方の字を与える場合があった。前者は特に主家に功績のあった者や縁者、後者は与えた人物との個人的な主従関係による例が多い。豊臣秀吉の場合、前者に小早川秀秋、宇喜多秀家、後者に田中吉政、堀尾吉晴、大谷吉継がいる。 偏諱の授与によって、改名を繰り返した例もある。上杉謙信は、元服時の長尾景虎(景は長尾氏の通字)→上杉景虎(関東管領山内上杉氏から姓を授かる)→上杉政虎(上杉憲政の偏諱)→上杉輝虎(足利義輝の偏諱)→上杉謙信(出家による戒名)と目まぐるしい。 江戸時代には、将軍から偏諱を受けることが決まっていた大名家もある(島津氏、伊達氏など)。 諱は、朝廷との関わりが生じるような階層以外は、実生活で使うことが滅多になかったため、周囲の者が諱を知らなかったり、後世に伝わらないことも起こった。「西郷吉之助平隆永」(さいごうきちのすけたいらのたかなが)は、親友の吉井友実が父の諱「隆盛」を彼のものと勘違いして朝廷に奏上してしまったため、新政府の公文書では「平朝臣隆盛」、戸籍令以降は「西郷隆盛」と呼ばれるようになってしまったという逸話が知られる。 在家の者の諱に対し、僧侶や出家した者は戒名を名乗った。禅僧は戒名の上にさらに法号を付けることもあった。一休宗純は、一休が法号、宗純が戒名である。出家するということは、俗世との縁を絶つということを意味したため、世俗の名字や諱を捨て、仏門の戒律を守る者の名という意味の戒名を漢字二字でつけた。従って、上杉謙信や武田信玄のように、世俗の名字の下に戒名を付けて名乗るのは、本来はおかしなことである。
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諱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 02:30 UTC 版)
諱は天正9年(1581年)までの文書では「信定」と署名しているのが確認できる。その後の書状では、年代の確実なもので古いものは天正17年(1589年)から「牛一」と署名して、晩年までこれを続けた。そのため信長の死んだ天正10年(1582年)前後に諱を変えたのではないかと言われている。また平家語り一方流琵琶法師が名乗りの一文字の末尾に「一」を付けるので、それに倣ったという説もある。
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諱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:17 UTC 版)
史料には「観世四郎」「(世阿弥の)弟四郎」などとしか記されておらず、その諱は定かではない。福王流によるワキ方伝書『能脇侍所作鑑』は観世流ワキ方の祖として四郎を挙げ、その名を「服部四郎左衛門秦清信」と記すが、近世の説であり信憑性は薄い。江戸時代後期のものと言われる家系図が「四郎太夫元仲」とし、後述のように小説などでも採用されているが、否定的見解が根強い。一方、金春家伝来の能本に、世阿弥自筆のものとともに伝えられた、「久次」なる人物の手による応永34年2月15日奥書の能本「トモアキラ(知章)」があり、この筆者を四郎とする説がある。
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諱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:33 UTC 版)
天正12年(1584年)における小牧・長久手の戦いの6月5日付けの陣立書まで確認できるように、豊臣秀吉からは長らく助作(助佐)と呼ばれていた。翌天正13年(1585年)7月1日、従五位下・市正に任じられた際より、直盛の使用が確認される。且元の使用は、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの始まる前のころと考えられている。この記事においては便宜上、名を且元に統一する。
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諱
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