諱についての論議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 07:55 UTC 版)
諱については従前から「ねね」と呼ばれてきたが、昭和期に入って日本史学者の桑田忠親が北政所の自筆消息(手紙)の自署が「ね」一文字であることを理由に彼女の名は本来は「ね」(通称では接頭辞「於(お)」をつけて「おね」)であり、「ねね」は『太閤記』などによる誤記であるという説を唱えた。これに対して女性名の研究者としても名高い角田文衞は以下のように反論した。 当時の女性が自筆の消息に名の頭文字を1字だけ署名するのは普通に行われたことである。いわゆる細川ガラシャ夫人(明智たま)の消息の上書の署名には「た」1字が書かれており、徳川秀忠の正室・崇源院(名はごう)が姉の常高院に宛てた消息でも「五」と自署している。ゆえに自署が「ね」1字であることをもってそれが本名であると言い切ることはできない。 鎌倉時代から江戸時代にかけて調べうる限りでの女性名を集めたが、「ね」なる一字名はただの1人も存在していない。一方、「ねね」は鎌倉時代あたりから現れ、非常に頻繁に用いられる女性名である(同時代にも栄姫(黒田長政継室)・禰々(諏訪頼重室)・珠姫(前田利常室)・南部直政室など複数見られる)。以上より、高台院の名は「ね」ではなく「ねね」の方が自然であろうと思われる。 NHKの大河ドラマにおいては高台院が初めて登場した昭和40年(1965年)の『太閤記』以降、長年「ねね」が用いられてきたが、平成8年(1996年)の『秀吉』以降は、平成18年(2006年)の『功名が辻』を除いて劇中では「おね」の呼称が使われている。さらに、平成28年(2016年)の『真田丸』では「ねい」(表記は「寧」)が使われた。
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