第4航空軍参謀長
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1944年(昭和19年)8月 第3航空軍参謀長 同年11月、第2飛行師団師団長木下勇中将が更迭され、第4航空軍参謀長の寺田済一少将が新師団長に親補されたため、寺田の後任として第4航空軍参謀長に任命された。 隈部は富永を補佐して特別攻撃隊を中心とした航空作戦を指揮したが、温厚だった寺田と打って変わり、ともに激しい性格であった富永と隈部はあわず、司令部内の空気は陰鬱を極めており、作戦遂行の支障となった。 やがて富永は、特攻機を送り続けることの過大な精神的負担で精神が衰弱し、大雨のなかでずぶ濡れになりながら特攻機を見送っていたことが徒となってデング熱も発症し、40度の高熱にうなされていた。心身ともに衰弱している富永を見かねた参謀長の隈部は、富永を後方に退避させ療養させることと共に、現地の残存兵力や状況を勘案し、これ以上フィリピンの山中に籠っていても、航空軍としては何の作戦行動をとることもできないと考え、第4航空軍司令部を台湾に撤退させて、戦力を立て直すことを計画して幕僚らと協議した。富永は酒を飲まないため、参謀たちは富永を除いて飲酒しながら協議を繰り返していたが、1月10日に富永不在の幕僚会議で「一部兵力をルソン島に残し、第14方面軍のための指揮連絡、捜索に任じせしめ、主力は台湾基地を活用して方面軍に強靱な航空支援をするほか手段がない」という結論に達した。12日に第14方面軍の参謀も兼任していた佐藤参謀が、方面軍首脳に意見具申し、松前、渋谷両参謀が台湾に飛んで第10方面軍に協力を要請した。 隈部らの計画は第4航空軍を台湾に撤退させた後に、戦力を補充してフィリピンを支援するというものであったが、直属の第14方面軍にも台湾の第10方面軍にも打診していただけで正式な許可があったわけではなかった。第14方面軍司令官の山下奉文大将は、自分のマニラをオープンシティにするといった命令通りに富永がマニラを撤退したことから、佐藤の報告を好意的に受け取って「富永はよくエチアゲに撤退してくれた。これで方面軍の面目も立つ、台湾の件は意見具申の電報を起案しておけ」と命じている。第4航空軍が正当な手続きを経て台湾に後退するためには、第14方面軍の指揮下から外れて、台湾を管轄する第10方面軍の指揮下に入らねばならなかったが、第14方面軍に了承の意図があっても、最終的には南方軍を経て大本営の許可が必要であった。ただし、大本営にはニューギニアからフィリピンまで敗退を続けている第4航空軍を、フィリピン決戦と運命を共にさせようという意図もあって、撤退の許可は簡単には出さないものと考えられた。 しかし、エチアゲにも連合軍の空襲が始まり、台湾とフィリピン間の制空権が風前の灯火となると、隈部らは焦りだし、いずれ撤退の許可がもらえることを前提にして、心身ともに衰弱の激しい富永を台湾に「視察」に行かせるという名目で脱出させることとした。隈部は心身ともに衰弱している富永に「第4航空軍は台湾軍司令官に隷属し、揚子江河口付近から台湾を経て比島に渡る航空作戦を指揮することとなった。ついては軍司令官は病気療養もあり、台湾軍司令官との作戦連絡もあるので、至急台湾に飛行していただきたい」という至急電が届いたと虚偽の報告をして、富永に台湾への撤退を同意させている。富永自身の記憶では、この隈部による口頭での報告が、富永が入浴中のときに行われたとされている。そして、隈部らは撤退用の航空機をどうにか準備すると、富永を台湾に逃がすための口実として「隷下部隊視察」との名目で台湾行きを大本営に申請していたが、やがて陸軍参謀総長からの台湾視察承認の電文が届いたので、これを台湾撤退許可と解釈し、まずは富永を航空機で脱出させることとした。 1月16日にまずは富永と随行者の内藤准尉が2機の「九九式襲撃機」で台湾に向けて脱出。その際、身体が弱って航空機に満足に乗れない富永を、参謀らが無理やり押し込んでいる様子を見ていた毎日新聞の報道班員村松喬記者は違和感を感じており、戦後に「彼(参謀)らはその時なんとしても、たとえ(富永)軍司令官を敵機の餌食にしようとも、送り出さなければならなかったと私は見ている。そうしなければ、彼らも脱出することができないからだ」「まずは病める軍司令官をシャニム二送り出した。新司偵が使えないとならば、危険極まる軍偵にまで軍司令官を乗せた。ということは、ひとまず送り出せば、あとは戦死しようと、知ったことではないからだ」と、隈部ら参謀が自分たちが台湾に後退するために富永の危険覚悟で送り出したと推理している。富永が台湾に到着すると、1月18日には隈部が「各部隊は現地において自戦自活すべし」との命令を出し、夕方になってからエチアゲ南飛行場から航空機でフィリピンを脱出した。 第10方面軍司令部に到着した富永は、司令官安藤利吉大将に「第4航空軍は第10方面軍の指揮下に入って作戦する」旨の申告を行ったが、安藤は憔悴しきった富永の姿を見て驚くと共に、当惑した表情で「大本営からそのような電報はきていませんが」と答えている。当惑した富永は、台湾に到着した隈部をサイゴンの南方軍総司令部に説明に向かわせたが、南方軍総司令官寺内寿一大将は、富永の無断撤退に唖然として、報告にきた隈部を寺内は自ら直接激しく叱責している。しかし寺内は、今更第4航空軍司令部を比島に戻しても意義が少ないため、これを追認し、正式に軍の後退を許可した。 台湾撤退に関しては、富永は戦後も一貫して「参謀長の隈部から虚偽の報告を受けた」としており、隈部の虚偽の報告を受けた上で「軍司令官は結局、参謀長の意見どおりに行動したのであるが、これは参謀長の所見に屈従したのではない。当時の精神衰弱の状態において、ひとり幾度が熟考した上で決行したものである。」と自らの判断で行ったと述べている。隈部自身も、後日、日本に帰ってきたときに、陸軍省の人事局に訪れて「第4航空軍の不評は全く私のいたらぬためです。殊にあの立派な、しかも当時、心身ともに過労の極にあった富永軍司令官に対して、とかくケチをつける者があると聞き深く呵責の念に堪えない」「(富永)自ら最終的にレイテに突入することを決めておられた。ところがそれを妨げて、軍司令官に生き恥をかかせたのは実にこの私です」「当時の実情を聞いてください。この軍司令官の決意が、いつとはなしに次第に司令部内に知れたため、我も我もと軍司令官と行を共にしたい者が増えてきたのです」「そこで私はいろいろと苦心して、その源を断つために軍司令官の突入を漸く防ぎ、その後台湾に後退することとなったのです」「ところが、この苦心が却って仇となり、避難の因を作ったことは全く私の不覚でした。」と話しており、富永の「虚偽の報告を受けた」とする回想を裏付けるものとなっている。 一方で富永も、レイテ島の戦い終盤までは、マニラを死守して送り出した特攻隊員の後を追うと決めていたが、精神的に衰弱してくると、1944年9月21日付「大陸指第2170号」における第4航空軍は南部台湾を作戦に使用して良いとの命令を利用して、台湾への一時撤退を考えるようになった。台湾への撤退の理由としては、戦力の立て直しのほかに、第4航空軍の参謀たちを無駄に死なせてはいけないという思いもあったという。第14方面軍参謀長の武藤章のほかに、第3船舶輸送司令官稲田正純少将からも台湾に撤退して戦力を立て直すべきとの提案があっており、富永を後押しした。しかし、常々、「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示して多数の特攻機を出撃させ、「マニラを離れては、特攻隊に対して申し訳ない」とも主張し、多くの共鳴者もいたので、台湾への後退について、自分からは何の意思表示もできなかったという。一方で富永は、隈部ら参謀がルソン島に残っての航空作戦の続行の可能性について疑問視し、台湾への撤退を考えていることも察知しており、結局のところ、富永も隈部ら参謀も台湾への撤退を望んでいた。富永は軍司令官就任当初から「幕僚統帥を絶対にやらぬ」と決めていたとおり、これまで航空作戦を独断で進めており、それは病床に伏すようになってからでも変わらず、また、人事局長や陸軍次官といった官僚的な職務に長く就いてきたこともあって、形式に拘り枝葉末節のことにやかましかったので、「台湾に転進せよ」との命令があったとする隈部の口頭だけでの報告を、後で自ら検証することなく「自分の軽率を恥じねばならぬ。自分の手落ちを認めねばならぬ」と盲信するはずはないと言う指摘もあって、富永を診察していた中留軍医部長は、「台湾に下がって爾後の作戦を講ずるというのが司令官の決意である」と富永の本心を見抜いていた。のちに、台湾で第4航空軍との連絡係をすることになり、富永や参謀たちと面談を重ねた第8飛行師団参謀の神直道中佐も、「航空軍四首脳(司令官、参謀長、参謀副長、高級参謀)の創作以外のなにものでもない」と、富永を含む第4航空軍司令部の共同謀議と考えていた。 2月13日、大本営は第4航空軍司令部の解体を発令したが、富永については上部組織の追認があったことから、軍紀違反にはあたらないとして処分は待命にとどまった。この処分は厳正を欠くという批判も多かったが、富永の病状は正常な判断能力がない水準にあるという、人事当局の判断から決定された処分であった。
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