第4航空軍参謀長とは? わかりやすく解説

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第4航空軍参謀長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 22:04 UTC 版)

隈部正美」の記事における「第4航空軍参謀長」の解説

1944年昭和19年8月 第3航空軍参謀長 同年11月、第2飛行師団師団長木下勇中将更迭され、第4航空軍参謀長の寺田済一少将が新師団長親補されたため、寺田後任として第4航空軍参謀長に任命された。 隈部は富永補佐して特別攻撃隊中心とした航空作戦指揮したが、温厚だった寺田打って変わり、ともに激し性格であった富永と隈部はあわず、司令部内の空気陰鬱極めており、作戦遂行支障となった。 やがて富永は、特攻機送り続けることの過大な精神的負担精神衰弱し大雨のなかでずぶ濡れになりながら特攻機見送っていたことが徒となってデング熱発症し40度の高熱うなされていた。心身ともに衰弱している富永を見かねた参謀長の隈部は、富永後方退避させ療養させることと共に現地残存兵力状況勘案しこれ以上フィリピン山中籠っていても、航空軍としては何の作戦行動をとることもできない考え第4航空軍司令部台湾撤退させて、戦力立て直すことを計画して幕僚らと協議した富永は酒を飲まないため、参謀たちは富永除いて飲酒しながら協議繰り返していたが、1月10日富永不在幕僚会議で「一部兵力ルソン島残し第14方面軍のための指揮連絡捜索任じせしめ、主力台湾基地活用して方面軍強靱航空支援をするほか手段がない」という結論達した12日第14方面軍参謀兼任していた佐藤参謀が、方面軍首脳意見具申し、松前渋谷参謀台湾飛んで10方面軍協力要請した。 隈部らの計画第4航空軍台湾撤退させた後に、戦力補充してフィリピン支援するというものであったが、直属第14方面軍にも台湾の第10方面軍にも打診していただけ正式な許可があったわけではなかった。第14方面軍司令官山下奉文大将は、自分マニラオープンシティにするといった命令通り富永マニラ撤退したことから、佐藤報告好意的に受け取って富永はよくエチアゲ撤退してくれた。これで方面軍面目も立つ、台湾の件は意見具申電報起案しておけ」と命じている。第4航空軍正当な手続き経て台湾後退するためには、第14方面軍指揮下から外れて台湾管轄する10方面軍指揮下に入らねばならなかったが、第14方面軍了承意図があっても、最終的に南方軍経て大本営許可が必要であった。ただし、大本営にはニューギニアからフィリピンまで敗退続けている第4航空軍を、フィリピン決戦運命を共にさせようという意図もあって、撤退許可簡単に出さないものと考えられた。 しかし、エチアゲにも連合軍空襲始まり台湾フィリピン間の制空権風前の灯火となると、隈部らは焦りだし、いずれ撤退許可がもらえることを前提にして、心身ともに衰弱激し富永台湾に「視察」に行かせるという名目脱出させることとした。隈部は心身ともに衰弱している富永に「第4航空軍台湾軍司令官隷属し揚子江河口付近から台湾経て比島に渡る航空作戦指揮することとなった。ついては軍司令官病気療養もあり、台湾軍司令官との作戦連絡もあるので、至急台湾飛行していただきたい」という至急電が届いた虚偽報告をして、富永台湾へ撤退同意させている。富永自身記憶では、この隈部による口頭での報告が、富永入浴中のときに行われたとされている。そして、隈部らは撤退用の航空機をどうにか準備すると、富永台湾に逃がすための口実として「隷下部隊視察」との名目台湾行き大本営申請していたが、やがて陸軍参謀総長からの台湾視察承認電文届いたので、これを台湾撤退許可解釈し、まずは富永航空機脱出させることとした。 1月16日にまずは富永随行者内藤准尉が2機の「九九式襲撃機」で台湾向けて脱出その際身体弱って航空機に満足に乗れない富永を、参謀らが無理やり押し込んでいる様子見ていた毎日新聞の報道班員村松喬記者違和感感じており、戦後に「彼(参謀)らはその時なんとしても、たとえ(富永軍司令官敵機餌食にしようとも、送り出さなければならなかったと私は見ている。そうしなければ、彼らも脱出することができないからだ」「まずは病める軍司令官をシャニム二送り出した新司偵使えないとならば、危険極まる軍偵にまで軍司令官乗せたということはひとまず送り出せば、あとは戦死しようと、知ったことではないからだ」と、隈部ら参謀自分たちが台湾後退するために富永の危険覚悟送り出した推理している。富永台湾到着すると、1月18日には隈部が「各部隊現地において自戦自活すべし」との命令出し夕方になってからエチアゲ飛行場から航空機フィリピン脱出した。 第10方面軍司令部到着した富永は、司令官安藤利吉大将に「第4航空軍は第10方面軍指揮下に入って作戦する」旨の申告行ったが、安藤憔悴しきった富永の姿を見て驚くと共に当惑した表情で「大本営からそのような電報はきていませんが」と答えている。当惑した富永は、台湾到着した隈部をサイゴン南方軍総司令部説明に向かわせたが、南方軍総司令官寺内寿一大将は、富永無断撤退唖然として、報告にきた隈部を寺内は自ら直接激しく叱責している。しかし寺内は、今更第4航空軍司令部比島戻して意義少ないため、これを追認し、正式に軍の後退許可した台湾撤退に関しては、富永戦後一貫して参謀長の隈部から虚偽報告受けた」としており、隈部の虚偽報告受けた上で軍司令官結局参謀長意見どおりに行動したのであるが、これは参謀長所見屈従したのではない。当時精神衰弱の状態において、ひとり幾度熟考した上で決行したのである。」と自らの判断行った述べている。隈部自身も、後日日本帰ってきたときに、陸軍省人事局訪れて第4航空軍不評は全く私のいたらぬためです。殊にあの立派な、しかも当時心身ともに過労にあった富永軍司令官に対して、とかくケチをつける者があると聞き深く呵責の念に堪えない」「(富永)自ら最終的にレイテ突入することを決めておられた。ところがそれを妨げて軍司令官生き恥をかかせたのは実にこの私です」「当時実情聞いてください。この軍司令官決意が、いつとはなしに次第司令部内に知れたため、我も我もと軍司令官と行を共にしたい者が増えてきたのです」「そこで私はいろいろと苦心して、その源を断つために軍司令官突入漸く防ぎその後台湾後退することとなったのです」「ところが、この苦心が却って仇となり、避難の因を作ったことは全く私の不覚でした。」と話しており、富永の「虚偽報告受けた」とする回想裏付けるものとなっている。 一方で富永も、レイテ島の戦い終盤までは、マニラ死守して送り出した特攻隊員後を追う決めていたが、精神的に衰弱してくると、1944年9月21日付「大陸指第2170号」における第4航空軍南部台湾作戦使用して良いとの命令利用して台湾へ一時撤退考えようになった台湾へ撤退理由としては、戦力立て直しのほかに、第4航空軍参謀たちを無駄に死なせてはいけないという思いもあったという。第14方面軍参謀長武藤章のほかに、第3船舶輸送司令官稲田正純少将からも台湾撤退して戦力立て直すべきとの提案があっており、富永後押しした。しかし、常々、「君らだけを行かせはしない最後一戦本官特攻する」と訓示して多数特攻機出撃させ、「マニラ離れては、特攻隊に対して申し訳ない」とも主張し多く共鳴者もいたので、台湾へ後退について、自分からは何の意思表示もできなかったという。一方で富永は、隈部ら参謀ルソン島残って航空作戦続行可能性について疑問視し、台湾へ撤退考えていることも察知しており、結局のところ、富永も隈部ら参謀台湾へ撤退望んでいた。富永軍司令官就任当初から「幕僚統帥絶対にやらぬ」と決めていたとおり、これまで航空作戦独断進めており、それは病床に伏すようになってからでも変わらずまた、人事局長や陸軍次官といった官僚的な職務長く就いてきたこともあって、形式拘り枝葉末節のことにやかましかったので、「台湾転進せよ」との命令があったとする隈部の口頭だけでの報告を、後で自ら検証することなく自分軽率恥じねばならぬ自分の手落ち認めねばならぬ」と盲信するはずはないと言う指摘もあって、富永診察していた中留軍医部長は、「台湾下がって爾後作戦講ずるというのが司令官決意である」と富永本心見抜いていた。のちに、台湾第4航空軍との連絡係をすることになり、富永参謀たちと面談重ねた第8飛行師団参謀神直道中佐も、「航空軍首脳(司令官参謀長参謀副長、高級参謀)の創作以外のなにものでもない」と、富永を含む第4航空軍司令部共同謀議考えていた。 2月13日大本営第4航空軍司令部解体発令したが、富永については上部組織追認があったことから、軍紀違反にはあたらないとして処分待命とどまった。この処分厳正を欠くという批判多かったが、富永病状正常な判断能力がない水準にあるという、人事当局判断から決定され処分であった

※この「第4航空軍参謀長」の解説は、「隈部正美」の解説の一部です。
「第4航空軍参謀長」を含む「隈部正美」の記事については、「隈部正美」の概要を参照ください。

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