第4航空教育団へ改編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 15:00 UTC 版)
「岐阜陸軍航空整備学校」の記事における「第4航空教育団へ改編」の解説
太平洋戦争は戦況が悪化し、日本本土が直接戦場となりつつあった。陸軍中央では陸軍航空関係の学校を戦力化することを検討し1944年(昭和19年)6月、まず各地の陸軍飛行学校5校と1分校をそれぞれ教導飛行師団に、立川陸軍航空整備学校を立川教導航空整備師団に改編した。 1945年(昭和20年)2月、軍令陸甲第27号により本土に置かれた航空関係の教育部隊が多数再編成された。これにともなって陸軍飛行学校2校と陸軍航空整備学校2校が閉鎖され、岐阜陸軍航空整備学校はその人員と器材等を基幹として第51航空師団隷下の第4航空教育団に改編された。第4航空教育団の編制は岐阜に置かれた団司令部と4個航空教育隊である。 岐阜陸軍航空整備学校の教育隊は岐阜第1航空教育隊および岐阜第2航空教育隊となった。編制表上の岐阜第1航空教育隊は10個中隊にわけられ少年飛行兵約1000名、少年飛行兵となる生徒約1000名、岐阜第2航空教育隊は12個中隊で少年飛行兵約1200名、少年飛行兵となる生徒約1200名を教育するよう定められた。また岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊は第4航空教育団の奈良航空教育隊となり、6個中隊で少年飛行兵約600名、少年飛行兵となる生徒約600名を教育することとなった。 同年8月、御前会議でポツダム宣言の受諾が最終決定され、8月15日正午より太平洋戦争の終戦に関する玉音放送が行われた。8月18日、全陸軍は与えられていた作戦任務を解かれ、各部隊は逐次復員を行った。岐阜陸軍航空整備学校の跡地はアメリカ軍に接収されたのち、1958年(昭和33年)に全面返還され航空自衛隊岐阜基地として使用されている。
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